自分で踊る。(覚え書きとして)

何かを批判する時、図らずも批判した本人が自らの品位を下げてしまうことが往々にしてある。

国家というものを、昔から考えごとの最先端にいた人達はこうとらえてきた。信頼できないもの、監視していくべきもの。民主主義って、統治を代表に委託してる。
そしてその制度は国民から考えることを奪ったのか、または国民自身が手放したのか。
国家が信頼するに値しない、監視さるべきものだとして、国民はなんて言われてきたか。
私がすごく覚えているたとえがある。

それは、にわとり。

ひとつの刺激で我を忘れたように騒ぎ、でも三歩歩いたら(喉元過ぎたら)何もかも忘れる。

世の中は正、不正ともにあって、それを眺めていたら怒りが湧いてくる。最初は病への不安、生活への不安だったものが国家の後手後手な指示、補償の出し渋り、それに怒りが向く。最初は明確だった。不安も怒りも。

でも、刺激につぐ刺激により、何が不安なのか何に怒っているのか判断できない状態になる。国家が加害者で国民が被害者というかきかえを行ったひともたくさん。

それは、国家が最も扱いやすい人間の姿。
なぜなら、喉元過ぎたら忘れるかもしれないし、覚えていてもこちらの問題点を正確につかめてもいなければ武器も持ち合わせていないにわとりだから。

目的のある、意志のある、つまり自分の道を、自分の一番大切なことを分かっている人間を国家は良いように扱うことはしにくいと私は思う。
なぜならにわとり小屋にすら入ろうとしないから。
無関心というわけではない。

淡々と自分の道を歩きながら、ナイフを研いでいる。どんなにナイフを鋭利にしたって私たちみたいな無名の人間の発言でぱっと国が動くことはないだろう。

でも、淡々(時々怒りながらも)と自分の道を歩む姿を一緒に生活する人がみている。それが大事。

自分にすることがある人間はにわとり小屋に入る必要なんかないんだよ、という姿はそれだけで希望。そういう人が発する批判は痛快。とても冷静に、研ぎに研いだ鋭利なナイフでひとつきにするから。

批判してもいい。怒ったのなら何に怒ったのかいうべき。ただ、踊らされないでほしい。
踊らされて品位を落とさないでほしい。
自分だけの踊りを自分から踊ってほしい。

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