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『「好き」を言語化する技術』感想

こんにちは、みなえです。
私はここ一年、同人イベントの度に近況・新刊後書き・前回イベント振り返りを兼ねた「ログ本」と呼んでいるペーパーを作成しており、良い本に出会った、などの日常も書き連ねていました。
なので、下記の本の感想も10/27のイベントのログ本に記載する予定でしたが、思ったより長くなったことと、noteを始めた、ということもあるので、一つの記事にしてみます。

「好き」を言語化する技術推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しか出てこない

X(Twitter)のポストの写真からわかる通り、フィルムふせんだらけです。
ふせんにも書き込みだらけ。
何となく気恥ずかしいけど、お値段以上に本を楽しんでいるのではないかと思います。

前回のログ本に引き続き、またもや良い本に出会いました。
読んでいて面白いし、「超条先集」連載開始時に推し活をするにあたって決めた自分ルールと似ていて、さらにワンステップ上の記載もあり、非常に共感出来た上に参考になりました。

「超条先輩」で他人の感想を見たいと思った際、他人の言葉に自分の感想が引っ張られるのを懸念して、「まずは誰のポストも見ずに、自分の言葉で感想を1ポスト分綴ってから検索をする」ということを行っているのですが、まさしくこの本で語られている「自分の言葉をつくる」という行為だと思いました。
「まっさきに自分の感想をメモする」
「『好き』を言語化するうえで、一番重要なこと(中略)『他人の感想を見ないこと』です」

とそのものズバリこの本に言ってもらえて、普段の自分の行動を後押ししてもらいました。

また、「クリシェ」という言葉を知らなかったのですが、この場合は「ありきたりな表現」という意味で使われ、
「泣ける」
「やばい」
「考えさせられた」

という言葉を挙げて、こういう言葉をいったん忘れてほしい、と書いてありました。
まさしくこのタイプの言葉を避けるようにしていたので、こういう言葉たちのことは「クリシェ」というのだなと、新たな知見を得て心が躍りました。

第4章にて「推しと自分の間に、他人を介在させない」という言葉があり、非常に名言であると思いました。
「もう誰かが言ってるだろうし」「間違っていたら怖いし恥ずかしいし(何も間違いなんて無いのに)」と自分の言葉を引っ込めた記憶はいくらでもあります。なぜかこう思ってしまうんですよね。
でもよくよく考えると、他人を傷つけなければ、感想でもなんでも表現するのに他人の顔色を伺う必要は無いんですよね。
わかっているのについ気になってしまう。
今まではぼんやり「そんなに気にすることも無いけど、たまに気にしちゃうなぁ」と思っていただけのところ、今回、「推しと自分の間に、他人を介在させない」と言い切る名言と出会えたので、行動指針が固まりました。
沼駿先生にファンレターを書く時、どんなに他人が気になっていても、この手紙は私と沼酸先生(と担当編集さん)しか見ないからな、と思えていたのも昔からこの思想があったからだと思います。
ファンレターは一方通行だし、好きなだけ書けるので気楽ですね。

また、二次創作でも似たようなことが言えると思います。
キャラをお借りする二次創作、同じ創作をしている他人と比べる瞬間が誰しもあるかと思うのですが、二次創作を通じて推しを出力するのに、他人を介在させる必要は無い、という風にも解釈ができて、自分の常日頃意識している考え方に近いなと思いました。

第5章にも名言だと感じた言葉があり、「大切なのは、語集力ではなく、細分化」というものです。
推し作品などに触れて、自分が「良いな」と思った点をよく観察して伝えることが言語化する技術なのだな、とこの本を通して改めて実感しており、語彙力はその細分化する際に「あると良い物」なのだなと思っています。
私はファンレターやログ本、また以前出したレポートのように何か文章を書く際に、稚拙でも良いので一文を書いたのち、その表現部分を「〇〇 言い換え」「〇〇  言い回し」と検索してしっくり来る表現があれば差し替えています。
ログ本は割とそのままストレートかも。

もうここまで来ると、「この本には名言しかないのか!?」と思うのですが、またもや名言だと感じた言葉を紹介します。
あとがきにて作者の三宅さんがこの本を書いた理由として述べているのですが、「SNSで出回っている言葉があまりにも無防備で、ナイフがびゅんびゅん飛び回っている状態に、ここ10年くらいずっとドキドキしていたからなのです」とあり、思わず付箋に「すごい!」と書いてこのページに貼りました。
私も、世に、というかXのおすすめタブやRPで回ってくるバズっているポストは、表現が尖り過ぎてて、思わず見てしまうと同時に、「ちょっと刺激が強いな」と思っていました。
何とはすぐ具体例は出ませんが。
まぁ見れば思い出すかも。
言葉は誹務中傷でなくとも他人に影響を与えやすく、SNSはその温床になりえると思うと、恐ろしいなと感じています。
こんなに簡単に他人と繋がれる時代、情報の取捨選択やいっそ見ないという選択が大事であるとかねてより思っていましたが、そこに「自分の言葉をつくる大切さ」も加えようと思いました。
自分の言葉があれば、自他の境界線を引いて考えることができるなと視野が広がりました。
もしかしたら、昔からずっと拙いながらもブログやX を続けてきたのは、「自分の言葉」を作りたかったからかもしれません。

「自分に言い聞かせているみたいだな」と三宅さんはあとがきで語られていましたが、私としては、今の私が探している言葉を横に立って語り聞かせてもらい、応援されている気分になりました。
これからのオタクライフのお供として、何度も読み返していきたいと思います。

おわり。
またお目に掛かることがありましたら、よろしくお願いいたします。

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