ディベーターから見た弁論
大学で日本語ディベートを続ける環境の1つとして弁論部があります。しかし、多くのディベーターにとって弁論は未知の領域ではないでしょうか。そこで、実際に今年弁論を経験したディベート甲子園OBOGで一高東大弁論部在籍の上田開様が非常に素晴らしい論考を書かれていましたので、Art of Argumentへの転載許可をいただき、ここに公開することにしました。
弁論の価値を知るというだけでも、非常に優れた論考なのですが、AOA独自としては「ディベート活用」という視点でもご一読いただければと思います。ディベートという判断軸をもって他の分野を理解していき、それによりディベートをも相対化していく。これにより、ディベートも弁論も共に自分の中で血肉にしていく営みを垣間見ることができます。それでは、ぜひお読みください。
ディベーターから見た弁論
僕が入っているサークルの活動の一環として、中央大学で行われていた新人弁論大会に出場させていただきました。今までやってきたディベートとは、似て非なる競技である弁論をやる中で、僕自身多くのことを考えさせられ、勉強になることが多かったです。そして何より、とても楽しい経験となりました。下に実際に使用した原稿を揚げてあるので、よろしかったらそれだけでも読んでみてください。
今回は主にディベートとの比較という文脈で、僕が考えたことについて少しまとめておきます。長くなりますが、要点は後半部に集中しているので、興味があるところの拾い読みでもしていただければ幸いです。
なお、これは読んでいただく際に必ず心に留めておいていただきたいのですが、本稿において、ディベートと弁論の比較は行なっているものの、これは二つを比べることで、二つの違いを浮き彫りにし、その競技の本質をより深く考えたいという試みからであり、決してどちらが良い悪いということを主張しようという意図はありませんし、僕自身そうした考えは持っていないということはご承知おきください。
そもそも弁論とは
弁論にはあまり馴染みがないという方も多くいると思いますので、弁論についての簡単な説明を入れておきます。弁論を実際に見たことがあるという方は、新しい話はないので、読み飛ばしていただいて構いません。
通常、弁論の大会には、10人程度の選手(弁士)が出場し、それぞれが、興味関心に基づいて自由に決定した議題について10分程度話します。そして、特に弁論で特徴的なことは、ヤジの存在だと思います。弁士が話している途中に「それはおかしいんじゃないのか!?」みたいなヤジを聴衆は自由に飛ばせます(あまりに悪質な場合は注意が入ります)。そして弁士の弁論が終わった後に、聴衆からの質疑があるというのが一連の流れです。
大会の順位などは、審査員の方々の評価によって決まります。評価基準は論旨の明確性や、論理性の他にも、弁論を行う時の態度などがあります。
以上が弁論の形式についての簡単な説明です。
初めて弁論を見た時の感想
僕は今年の4月に初めて弁論を見て、ルールもその時に初めて知りました。先輩方の弁論を聞かせていただいて、主張として興味深いものだなあ、と思いはしたものの、もともとディベートがやりたくて入ったということもあって、その時は自分が弁論をやって見たいと強く思うことはあまりなかったです。どちらかというと、ヤジがあるといったことや、質問が一度しかできないと言ったことになんだかなぁと思ったのが正直なところでした。その後、五月祭の時に、僕のサークルが主催する弁論の大会の手伝いをし、実際の弁論の大会を見ることもしました。その時も大きく印象が変わることはありませんでした。主張として面白いものはあるものの、特別質疑応答などが盛り上がるわけでもないし、自分が競技者としてやるだけの魅力は感じられないなあというのが正直な感想でした。
なんで大会に出たのか
以上のように、弁論を積極的にやりたいという思いを持ってはいなかったのですが、やってもいないのに、外から見ていて批判だけしているのは競技者に対する誠意を欠いているのかなと思った(逆のことをディベートについてやられたら素朴に悲しいなあと思った)ので、とりあえず出てみて、合わないと思ったらその時はやめようと思って出てみることにしました。
本題 実際やってみて感じたディベートと弁論の違い
結論としては、ディベートはアカデミック、弁論は実社会よりであるということを強く感じました。優劣というよりも、純粋に求められる力の使い方の違いということです。スピードスケートとフィギュアスケートみたいな違いですかね。とりあえず言いたいのは、似てるけど、実は目標としているところが全然違くて、しかもそこに優劣はないということです。弁論の肌感はディベートでいうところの2ARに一番近かったです。ジャッジの思考をダイレクトに誘導していく作業と、多少似ているものがあると思いました。
以下細かい分析です。
自分で設定した論題を肯定することについて
先輩方に言われた指摘でディベートとの違いをはじめに強く意識させられたのは、「ディベートは与えられた論題を肯定すればいいけれども、弁論は自分で定めた議題を自分で肯定しないといけないから、その議題を選択した根拠が必要になる」ということでした。
ディベートでいうところのカウンタープランの考え方に近いと思います。しかし、ディベートのカウンタープランでは、想定するメリットについてキャプチャーされるかが大きな問題になるのに対し、弁論で求められるこうした点への応答責任はもっと広範で、弁士が無限に選択が可能であった中でなぜこれを選んだのかということを考えないといけません。これが僕にとってかなり難しかったです。ディベーターとしては全く当たっていないカウンタープランに思えても、弁論の場においては、それらを返す責任が弁士に生じます。
こうしたところに、冒頭に述べた、競技の性格の違いが現れていると思いました。アカデミックな場において、ある問題に対しての政策の是非を判断するときは、それより有効な手段を探すことが当然求められますが、翻って実際の社会では、無数の問題がある中で、そもそもどこに手をつけるかというところから議論はスタートしないといけない、こうした点に、二つの競技の持つ性質の違いを僕は見出しました。
正論だけで人の心は変えられないということについて
ディベートをやっていると、自分の理論よりも相手の理論が正しいと思ったら、それだけでジャッジは十分説得されてくれます。具体的にいうと、より論理的で妥当な主張をした方の主張が、基本的には絶対的に評価され、論理で負けた部分については評価されません。
しかし、弁論の応答の練習をしていて先輩から言われたのは、「仮に相手の主張を、論理的に全て否定しきったところで、本当に相手は説得されるのか?もっと相手に寄り添う姿勢を示さないと人の心は動かない」ということでした。このことは、相手の論理を切るだけで、双方の間に合意が成立するという、ディベート界のある種特殊な評価軸、そしてそれを評価してくれるジャッジに甘えてしまっていたなということを痛感させられました。
アカデミックなフィールドでは評価されるのかもしれない論理も、実社会では、ただ論理的に正しいだけでは評価してもらえないという、言ってしまえば単純なことなのですが、こうしたことを改めて考えさせられました。
国全体のメリットで人は動かない
ディベートでは、基本的に主語は日本、とされており、国全体としてメリットがあるのであれば、論題を肯定すべき、という主張は全ての人に疑問なく受け入れられているところでした。例えば、これは僕がディベート特有だなと思う考え方なのですが、規制緩和で失業者が出るにしても、それは緩和で新たにできる職があるのだから社会全体でみれば問題ない、という主張は、ディベートにおいてはかなり説得的な主張であるとして評価されるところであろうと思います。
しかし、弁論においては、一人一人の聴衆の説得というところに重きが置かれるので、「仮に国全体としてもベターだとしても、その価値を肯定しないことの方が個人的に得であると言った状況において、人を説得できない」ということを先輩から指摘されました。これは、少し極端な事例なのかもしれませんが、自分が国という主語で世界を見すぎていたなということを改めて考えさせられました。国全体が良くなるから、というある種理想論的なことを言われただけで、自分の主張に賛同してくれる人がいるのか、と言われて改めて考えてみると、そうした人はほとんどいないだろうなあということに気づかされました。こうした問題は、例えば国民投票論題などを扱えばある程度ディベートでも考えることができるテーマですが、弁論だとこうした、実社会の個人がどう動くかという観点の分析が桁違いに重かったです。人々が本当に肯定したい、もしくはしなければならないと思えるような意味付けや具体的な話、そしてそれがいかに重要な問題であるのかといった人を動かすための工夫が必要であるのであろうと思いました。
こうした結果、ディベートでは制度面での細かい解決性の検証などが求められるのに対し、弁論では人の心を動かすためのレトリックや具体例などを有効に使うことが求められるという違いに繋がるのだろうと思いました。
最後に 大会感想および総括
弁論という競技を今回やってみた純粋な感想としては、質疑やヤジのレベルについては、あまりにも論理的な妥当性を欠いていると思わざるを得ないようなものもいくつか存在しており、議論文化という面では正直レベルがあまり高いとは言えないのかなあという感じでした。しかし、弁論の本質は、ディベートでやっていたような、議論を突き詰めて真理を掴むということにあるのではなく、聴衆を説得し、彼らの心を動かすことなのだと気づいたとき、僕の中にあった違和感のいくつかが解消されたように思えました。僕の弁論が終わった後に、僕のところにわざわざ来て、僕の弁論についての感想をくれたり、質問をしてくださったりした方々とお話ししているとき、この大会への僕の努力は報われたのだなという幸福感を感じていました。多くの人に自分が真剣に訴えたいと思っていることを聞いてもらえて、それについて真剣に考えてコメントしてくれる人に出会える、それが弁論大会の一番の魅力なのかな、と今回僕は思いました。
また、ディベーターとしての視点で見たとき、弁論は僕にとって異質なことの連続でした。上に述べたようなこと以外にも、話す早さなど、初めは戸惑うことが多くありました。しかし、そうした違いを一つ一つ検討していく中で、弁論がどのようなことを目指しているのか、そして普段行なっているディベートではどういったことが志向されているのかということを考える機会につながったと思います。今ディベートをやっている中高生や大学でディベートだけをやられているような方にも、一度、試しに、という気持ちで弁論大会に出てみていただきたいと思います。初めて見ると「なんだこれは!?」という気持ちになるディベーターが多いことだと思いますが、そうした違いを検討する中で、見えてくるものも少なくないのではないかと私は思います。その経験は、自身のディベート観を再確認することにも繋がるのではないかと思います。また、弁論という、多くの聴衆を説得しないといけない競技に接することで、この前の新人戦でも話であったような、ディベートだけの技術を、広く使える技術に昇華させる、ということが実現できるようになるのではないかと、今回の弁論大会を通して思いました。だからこそ再三言っていることではありますが、ディベーターの方々には、文化の違いにためらう気持ちを少し抑えて、弁論という競技に挑戦してみて欲しいと思った次第です。
以下、実際に大会で使用した原稿を掲載しておきます。
皆様の中で何か思うことがある方がいらっしゃれば、ぜひコメントをいただきたいです。
弁論原稿
アフリカのスーダンで撮られたハゲワシと少女という写真をご存知でしょうか?
飢餓により衰弱してうずくまっている少女と、後ろからそれを狙うかのようにしているハゲワシの姿を写し取ったものです。スーダンの人々の生活がいかに困窮しているかを鋭く切り取ったということで、後にピューリッツァー賞を受賞した作品です。
しかし、この写真のカメラマンには、賞を受賞してしばらくした後、世界中から批判が殺到しました。「なんで写真なんて撮っているんだ、そんなことをしていないで少女を助けろ、お前はなんてひどい人間なんだ」といったものがその批判の主なものでした。
実は、そのカメラマンは、写真を撮った直後に、必死の思いでハゲワシを追い払って、少女を助けていました。しかし、人々はそんな事実は御構い無しに、このカメラマンをひたすらに批判したのです。
こうした批判に耐えかねて、カメラマンは、自ら命を絶ちました。
みなさん、本当にこれで良かったと思いますか?
もちろんよくないことだと、みなさん思われるでしょう。だれかを軽率に批判して、挙げ句の果てに死に至らしめるという行為は、問題視されないといけません。
しかし、ハゲワシと少女、という写真に伴う問題は、これだけなのでしょうか?
もう一度考えてみてください。そもそも、この写真が撮られたのは、スーダンの困窮を世界中に訴えるためだったのではないでしょうか?
それでは、どうして、その少女はそんなに困窮していたのでしょうか?
こうした問題の背景には、スーダン国内の内戦や、国際的な支援の不足などがあったのではないでしょうか?
本当に少女を救いたいと思うのであれば、カメラマンの行動を感情に任せて叩くのではなく、そうした根本的な問題を批判すべきだったのです。
しかし、実際は、カメラマンに批判が集中しました。
カメラマンを批判している時、その批判をしている人は、自身の正義感を満たすことはできたのかもしれません。けれども、そのような批判は、問題の解決につながっていないだけではなく、スーダンの貧困という、問題の本質を見えにくくするという点で有害なものですらあるのではないでしょうか?そしてまた、こうした批判により失われてしまったカメラマンの命が、もう戻ることはないのです。
今回私が問題にしたいのは、こうした、無批判な批判とも言える、人々が深い考えもなしに、反射的に行ってしまう批判についてです。
このような、問題の本質を掴みきれていない批判が横行してしまう構造は、何もスーダンの貧困といった国際問題だけに限ったことではありません。
例えば最近のニュースを考えてみてください。引きこもりの犯罪などの話題が頻繁に取り上げられていると思います。その際、犯人の異常性や彼らを育てた家族などが往往にして批判されており、「なんてひどい人間だ」「なんてひどい家庭環境だ」と、犯人やその家族に批判が集中する光景を、皆さんもみたことがあると思います。
こうした批判が必ずしも悪いとは、私も思いません。確かに犯人のパーソナリティや、家庭環境にも問題はあったのかもしれないからです。しかし、こうしたことだけを叩きたいだけ叩いて、それで問題解決、としてしまっていいのでしょうか?
本来こうした問題は、個人のパーソナリティや家庭環境以外にも、もっと複合的な要因、例えば、就職氷河期にぶつかってしまいそもそも就職が困難であったり、再就職のための社会制度が十分に整えられていないであったりといった、多くの要因によって引き起こされているのではないのではないかと私は思います。
しかし、現状あるような、個人のパーソナリティや家庭環境が悪かった、というような、まるでそこだけに責任があるかのような批判が世間に蔓延してしまったとき、こうした他の要素は見落とされてしまうのではないかと、私は思います。
それでは、なぜ、私たちは、このような批判をしてしまうのでしょうか?
それはきっと、そうすることで私たちはとりあえず批判によって問題を解決できるという思いに浸ることで安心でき、なおかつ、悪いものを懲らしめているという正義感に浸ることができるからであろうと思います。こうしたいびつな攻撃性を満足させるために、誰かわかりやすい対象をやり玉にあげて、批判を集中させているのであろうと私は思います。
しかし、何か分かりやすい悪者を作り出して、それを叩くことで満足してしまっていては、それぞれの責任が適切に見出されず、結果的にいびつな構造を生んでしまうのではないでしょうか?
こうした無批判な批判の結果得られる安心感や満足感は、かりそめのものに過ぎないのです。
以上のような、無批判な批判者という問題を踏まえた上で、私が今回この弁論を通して提案したいのは、何かを批判する前に、もう一度立ち止まって考えなければならないということです。自分の批判が感情に任せた八つ当たりになっていないか、問題の本質はなんなのか、自分は問題を極度に単純化しすぎてしまってはいないか?こうしたことを考えてから私たち一人一人が批判を行うだけで、批判の有効性は格段に上昇するのではないか、と私は思います。そして何より、このようなことを意識しておくだけで、とりあえずだれかを批判したいといういびつな攻撃性によって、無批判な批判を行ってしまうようなことを防げるのではないでしょうか?
そして近年では、こうした意識を持って批判を行うことの重要性は、どんどん大きくなっています。
SNSの発展により、私たちが批判に関わる機会は格段に多くなりました。小さな個人の批判が、多くの人に共有されるということが日常的に行われるようになったことで、批判という行為の持つ重みは日に日に増していっており、それに伴う責任もどんどん大きくなっています。
例えば、少し前にあった、「保育園落ちた日本しね」というタイトルの匿名ブログが多くの人に拡散され、最終的には、国会において保育園不足が議題として大きく取り上げられるようになったという事例は、こうした人々の批判の影響力が増してきていることを示していることでしょう。
また、2010年から始まった、アラブ世界の広域における自由化運動である、アラブの春でも、ことの発端は、アラブで抑圧的な生活を強いられている人がガソリンを被り、焼身自殺をする動画が、SNSに投稿され、それに対して世界中から批判が集中したことでした。
このように、批判は今までの世界では想像もできなかったほど大きな力を持ち、しかも私たち一人一人が、そうした大きな力を行使することができる状況になってしまっているのです。
批判とは、形を持たぬ武器です。
それはうまく使えば、社会をよくできるかもしれないけれども、使い方を誤れば、問題認識を大きく歪めてしまい、問題の解決を妨げるだけではなく、ひどい場合には、ハゲワシと少女の例のように、誰かを傷つけることになります。だからこそ、私たち一人一人の批判には重い責任がつきまとうのです。
それは例えるなら自動車の運転と同じです。
自動車は便利なものですが、それが暴走して、誰かを引いてしまえば、それが持つ大きな力ゆえに、大きな問題を生じさせてしまう。だからこそ私たちは、免許を取るといった、運転に際しての負担や責任を負っているわけです。
だからこそ、同様に、批判という行為においても、私たち一人一人が、無批判な批判者となってはならないという、強い信念を持って、これからの社会を生きていかないといけないのです。批判という強力な武器を、上手に使いこなすことで、より良い社会を実現していくことも、可能であると私は信じています。しかし、私たちは、そうした強力な武器を安易に振り回してはいけないのです。この弁論を通して、みなさんの批判という行為に対する意識が少しでも変わったのであれば幸いです。
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