水曜日のカンパネラで人生観ちょっと変わった話

ラノベみたいなタイトルで書き始めてしまいましたが、某フェスで水曜日のカンパネラを観まして。
そのあとのPeople In The Boxが観たかったのですけど、タイテの流れでたまたま観ることになり(もちろん楽曲は好きではある)ボーカルが詩羽ちゃんになってからは初鑑賞でした。

で、ライブ中に詩羽ちゃんが
「わたしはステージに立っているときは自分が1番可愛くて最高だって自分を認めている」
というニュアンスのことを言っていて、
それを聞いたとき、ほんとに涙が流れてきて。こう、内側からグワーっと溢れ出る感情みたいなものがあったんですね。

でもふと冷静になって、このあとのピープル、お世辞にも明るいバンドとは言えない、を観にきている自分と、いま詩羽ちゃんから感じた衝動の間に矛盾があるのではないか、と思いました。根明ギャルが好きなのに、メメントモリしようとしているぞ?と。

この感覚、いまに始まったことじゃないのですが、実はずっと抱え続けていて。
ギャルマインドの自分と、陰鬱とした自分を常に抱えていることに若干の疑問を持ちつつ、まあ人には二面性あるし、くらいに考えていたのですが、なぜかその日はこの二面性を矛盾ない事柄として整理しなければいけない気がしたのです。

で、結論から申しますと、私という人間、
自分がフィクションと認識しているものはどこまでも暗くあってほしい。
逆にリアルと認識している事柄については、どこまでも明るくあってほしいのです。

ピープルを聴いているときの感情はある意味御伽噺を読み聞かされている感覚に近くて、言ってしまえばフィクションの世界に浸っている。
逆に詩羽ちゃんを目の前にしたときは、アーティスト以前に、いち人間の生き様と対峙し、そのリアルな熱量を受け取っている。

ああ、すっきり。
だいぶ納得できる整理ができたのですが、
ここでさらに考えます。

なぜ
フィクションは暗く、リアルは明るく、
を好むのか。

私、たぶん基本はギャルなんです。
自分のことをわりと信じているし、みんなハッピーに生きてほしいし、世界平和とかも本気で実現できると思っている。現実世界を生き抜くうえで、ベースの自己肯定感はかなり高い人間です。

ただギャルの光をどうしても維持できない瞬間が来る。これはもうバイオリズムというか、波のようなものなので仕方ないのですが。

そこで、フィクションとしての闇が必要になります。リアルで自分が抱えてしまった闇を、より大きなフィクションの闇で上書きするのです。こうすることで、私が抱えていた闇は、フィクションが肩代わりしてくれるので、リアルから切り離すことができる。即ち、心がしんどさから解放されるのです。

フィクションの存在意義について、
リアルに起きていない事象を擬似体験させること、とよく言われます。
これは間違いではないと思います。
でもきっと、それだけではない。

フィクションは、現実の体験を無きものにするためにも存在する。

プロセスは違うけれど、明るい音楽も暗い音楽も、人を救うことができる(音楽に限らずですが)。
改めてこの事実に気がつけたことは、
また世界を少し好きでいる理由になりました。
ありがとう水曜日のカンパネラ、
ありがとうPeople In The Box。

サクッと終わらせようと思ったのに、
だいぶ長く書いてしまいました。
ゴールデンウィークって、
ほんと余計なこと考えちゃいますね。

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