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清水祐貴history

おはようございます。
こんにちは。
こんばんは。

初めまして、
清水祐貴(しみずゆうき)と申します。

この度noteを開設することになりました。(👏)

以前から開設しようと決めてたのですが、タイミングを逃してしまったので、この変なタイミングでの開設となりました。


知らない人もいると思うのでまずは自己紹介したいと思います。


年齢:23歳(1997年誕生)
生まれ:東京都
育ち:練馬
第二の故郷:福島
身長:170cm
利き足:左足(短足)
特徴:多少の人見知り、お尻でかい
趣味:ダーツ、スノボ、読書、プレミアヲタク🏴󠁧󠁢󠁥󠁮󠁧󠁿
です。


兄の影響を受け、5歳の時からサッカーをやり始め、今年で19年目を迎えてます。

ちなみに三兄弟の真ん中です。(生意気次男坊)←ここ大事。笑



経歴としては、大泉西小ハリケーン▷TTK SC▷A.N.FORTE.FC▷尚志高等学校▷拓殖大学▷edoallunited(旧onetokyo)▷南葛SC ←現在
です!

ここからは僕のhistory(ヒストリー)を書いていきます。

historyというほど歴史はないですし、story(物語)でいいじゃないかと思う方も居ると思いますが、そこは僕のこだわりとして、スルーでお願いします。笑


正直に言うと、僕の人生は苦悩の連続です。

少し長いですがぜひ目を通してほしいです。

兄の影響で幼稚園から始めたサッカーを小学校に入学した時も少年団で続けました。

小学校の少年団でやっていたのですが、小学校5年生になる頃に仲の良い友達に誘われて地元のクラブチーム(TTK SC)に移籍をしました。

理由としてはシンプル。

上手くなりたいから。今のチームじゃ物足りない。

中学時代は兄が所属していた影響もあり、埼玉県新座市朝霞市を拠点として活動しているA.N.FORTE.FC(略称:フォルチ)に入団しました。

フォルチ時代は走らない日がないくらい沢山走らされては怒鳴られ、笛ピン(笛で叩く←これが案外痛い)をされる日々で時にビンタやカンフーキックを喰らっていました。笑 

写真は中学時代の公式戦。背番号は10番。
自信持って似合ってないって言えますね。笑

ボールを触って練習する時間よりもグランドを走ってる時間の方が長かったのは鮮明に覚えています。

忍耐力と体力はこの中学校3年間で大幅につき、後のサッカー人生に大きくプラスを与えてくれることになります。

無限に走れる気するし少し理不尽を言われても聞き流す力をつけたのも中学時代のおかげであります。

フォルチの監督のおかげもあり高校時代は福島の強豪、今や全国区の強豪まで登り詰めた尚志高等学校に入学しました。


地方から優秀な選手が集まる中、埼玉の弱小チーム出身の僕を知る人は1人も居ませんでした。

サッカー部に入部したのが自分の代だけで60人もいました。

入学当初1年生だけのカテゴリーがあり練習試合をしても、いつもEチーム。要するに1番下手くそが集まるチームでした。

サッカーが上手くなりたいと思い親元を離れてまで選んだ道なのに何もかも上手くいかない。

悔しい日々でホームシックになっていました。

そうした状況の中、自分の状況を気にかけてくれたのが2つ上の中学からの先輩の富夢君。

同じ左利きで身長低い。そしてバカ。笑 
何かと僕と重なる部分も多かった。

富夢君は2年の時からトップチームで試合に絡んでいて僕が入学した時には主力で活躍していた。

富夢君の存在は僕にとって大きすぎる存在で当時はポジションも同じ。

どうやったら上手くいくかを聞いていたのを思い出します。

そんなこんやで1年生の終わりの頃に差し掛かった時に梅津さんという尚志スタッフ陣の中で2番目くらいの権力者に、紅白戦にてボランチで起用されたのがきっかけで花開く。

今までサイドハーフやサイドバックが多かったけれどボランチというど真ん中のポジションをやらされた時に自分自身も凄く活き活きしてサッカーをしたのを覚えています。

その後は2年時の夏に初めてトップチームに絡む。

しかし実力不足もあり、すぐにセカンドチームに落とされるが最終学年になってからの最後の一年は相棒・まるこ(本名:佐藤凌輔)と共にダブルボランチを組み、インターハイ・選手権の県予選を勝ち抜き、優勝し、全国大会に出場することができました。

※画面下列真ん中

テレビでみていて憧れていた全国高校サッカー選手に出たいと思い、15歳で親元を離れる決断をし、18歳の時にそれを叶えることができて、少しは親孝行をできた気がしたのでとても良かった。(もちろん全国制覇できなくて悔しい気持ちもあるがそれは置いといて。)

その後はサッカーを辞める手段はなく、大学に進学してプロになることだけを考える道を選ぶことにした。

しかし、地方の大学は反対され実家から通える大学を選ぶように言われ、選択肢が大幅に減少するも、その中で選んだのが八王子にある拓殖大学であった。

大学入学した瞬間に大学選びを間違えたことに気付きました。

やる気のない先輩達、やる気のない当時の若い指導者、週3日のオフ、素走りがない。今までの環境とは180°違う。

ただ、時間は戻せない。

大学生は自由で色んな誘惑があり、飲み込まれそうになったが、腐らずやり続けた。朝7時からの練習でグランドまで1時間半かかるので毎朝4時40分起き。一二年生の時は授業が3コマ4コマあったり、バイトもあったり、睡眠不足の生活が続く。

それでも腐らずやり続けた。

若干の運もあり3年時からトップチームに所属することができ、やっと大学サッカーを味わうことができました。

しかしここでも苦悩があります。トップチームのコーチはやたら新人いじめ(※新しく上がってきた人に執拗にアタックすること)をする。何かあったら全部俺。何もしなくても言われる。ひたすら耐えるしかない。誰しもが通る道。

そんなこんなで気が付けば大学4年生になっていた。しかし、長期オフ明け僕は怪我をしていた。

オフ期間中にフットサルをやっていた際に内側靭帯損傷のまあまあ大きい怪我を負ってしまった。情けない。怪我耐性強いと自負していただけに何をしているんだ。仲間とかなりの遅れをとってしまった。

そして大学ラストシーズンの開幕を迎える前日までサブでした。しかし同じポジションのやつが遅刻をして試合に出れないことになった。(うちの大学はやたら遅刻に厳しい)急遽チャンスを貰った。思ってもいなかった。特に普段良いことをしてきたつもりでもないのに、なんてラッキーなんだ。正直そう思っていました。

いざ開幕を迎える。出来としては及第点だった。だが週明けの練習も引き続きスタメンの方に名前があった。それからコンスタントに試合に出続けることができました。

最後の1年は37年ぶりの全国大会出場を成し遂げたり、リーグ戦は4位フィニッシュ。

あと少しで昇格というところだった。

※画面右から3番目


学生生活最後の年。

かなり充実していたと思う。

あそこの開幕戦で試合に出ていなければ違った人生だったに違いない。

チャンスはどこに転がってるかわからない。

まさにこの言葉を信じるきっかけを作ってくれた出来事だった。

しかし思い描いた理想像とは違います。

大卒でプロになるという夢は儚くも散った。

シーズン中にJ3のチームから声をかけて頂き、練習参加をしたものの、合格に至らず。

あと一歩。チャンスを活かせなかった。

こうしてプロ内定を獲得することができず、学生生活を終えることになった。

正直大学サッカーを引退してプロになれなかったら競技を辞めようと考えていた。

いわゆる一般的な社会人になってサラリーマンとして働くことを決意した。

いや、決意していたはずだったが、このタイミングで自分自身にビッグニュースが飛び込んできた‼︎‼︎



続く………(続きは次回のnoteをご覧下さい)

ここまで小学校から大学までのhistory(ヒストリー)をお話してきたけれど、大学卒業後の話はまた次回のnoteに更新しようと思います。

初回から長くなってしまって申し訳ないです。

書き始めたら思ったより手が止まらなくなってしまいました。笑




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