いろとりどりのヒカリ プレイレポート9枚目
翌日。いろセカやっていきましょう藍√です。普通に体調悪くて8枚目の勢いのままプレイすることは叶いませんでしたが、仕事を早抜けしたのでプレイ時間が伸びました。ワース!
・管理者となった藍のパート。どうしようかな……殊この話を読んでいくとなると、いわゆる藍の悠馬(鹿野上悠馬)と真紅の悠馬(悠馬)の書き分けが凄く面倒になる。わざわざフルネームで鹿野上悠馬呼びをしてもどっちみちだしなあという印象
→最初の奏大雅と本編の奏大雅はまだ分けやすかったなと
→とりあえず、藍の方の悠馬をユウマと記述することにする。本作主人公の方の悠馬は悠馬のままでどうぞ
→別に「鹿野上」と表記してもよかったんだが、おそらくこれから始まる過去回想では真紅と藍はユウマのことを名字ではなく名前で呼ぶはずだから、それに合わせてユウマとする。知らんけど
・この章でなにが語られるかというと……まあ、悠馬の罪だろうな。ユウマは悠馬のことを一切許していないし、悠馬はそれも込みで「自分が残って真紅たちと変わらぬ生活をしていること」に強い罪悪感を覚えている。そこに直接的な描写が入るんだろうな、というとこまでは分かる
→アスタータタリクス。ちょっと前に同名のスマホゲームがリリースされてたな。長生きしなさそうだったから触ってもよかったんだけど、他の趣味が消化しきれてなかったからやめといた
・紫苑、あるいは十五夜草とも呼ばれる草花の学名。創作界隈では非常によく使われる花だ。花言葉には「あなたを忘れない」「追憶」などがある
・素材と設計図があって、その素材は消費してもよいもので、あと生命の危険や他の人の迷惑が無いのならとりあえず作ってみるってのは分かる。作れるのなら作ってみて作れたら満足する。作ること自体に目的や意味は無い
・藍は精神性が「神」に分類されるなあと思う。俗っぽさはあるんだけれど、それでも人間的ではない
・まあ、警察沙汰。というか商店街の人たちは二階堂姉妹のことをちゃんと社会の一員として承知しているんだな
・真紅に妹と幼馴染みと街の人たちがいて、このように気を置こうともしない相手と平和な口論をしている。そんな光景こそ、幸せというものの一つの形なんだろうなと。悠馬に憑いていた頃の真紅は……どう思ってたんだろう
・サンタクロースの話をしたいかね。私は手持ちの話が入っているひきだしが少ないからね、いつも似たようなことしか言えないよ。それはそれとして良いBGMだ。なにかの讃美歌か?曲名が出てこないや、覚えておこう
→これはほとんど正しい。そもそも夜にそう思える状況が存在すること自体が間違いなんだ。人の生きる太陽の時間が終わったのならば、次の太陽の時間までは眠りにつくのが自然だ。夜に活動するようになってしまったから、人は寂しさや怖さ、悲しさを余計に感じるようになってしまった
→ただでさえ生きることは辛く苦しいことばかりなのに、夜の時間までも悲しみで満たすのはあまりにも効率が悪いだろうが
・雨降るなかに、陽射し差し込む過去回想。何度書いたか分からねえが知ってるぜ、知ってるぜ君の顔を!
→この際だからハッキリさせよう。きっと君は悠馬と真紅の娘で、藍の魂を持つ者で、そしてそれ以上のなにかがあるんだろう。そこまでなら私にだって分かる、知っていると言ってしまえるほど明白な推測だ
・この音楽もいいね。なにかのボーカル曲のアレンジか?
・妄執的(文字)と執拗的(音声)。繰り返すが殊更に誤字をどうこう言うつもりは無いものとして、場面として正しいのは前者かなと
・その教育があったうえで、子どもを捨てる願いが叶えられたのか
> 「願いを叶えるということは――その個人の魂が求める自由のひとつを手に入れるに等しいものなのだと、悠馬はそう考える」
→「魔法は探し求めている時が一番楽しいんだよ」
→言葉は魔法で、生きることは旅をすること。誰かから授かってでも叶えたい願いや欲しい望みが無いからといって、情熱や執着が無いわけでもない
フリーレンの話題を出したから思い出した。某SNSの某フォロワーが、YOASOBIという音楽グループが手掛けたアニメOPに対して思うところがある……と言うのを午前中に見たんだ。
彼がアニメのOPに求めるものはいわゆる包括的・象徴的であるようなものだそうで。その上でYOASOBIは焦点を絞ったピンポイントな表現をしているようで、なんか違うとのこと。まあ、概ね同意見。
YOASOBIの音楽は確かにあまりにも直接が過ぎる。アレだね、いつも言っている通り「汝、形ではなく魂を愛せ」ってヤツだ。YOASOBIの『勇者』は形で、miletの『Anytime Anywhere』は魂とでも言ってやろうか。OP2の『晴る』は魂の方に寄っていたように思うけど。
・この国の願いの叶え方は……つかさ√の孤独な王がそうであったように、ひどく現実的なんだろうなと思う。この『いろとりどりのセカイ』の作品群に於いて、超常的な力を持つのは4つだ。セカイの移動に関わる要素と、その国(セカイ)の絶対的法則と、敷島の家絡みの式と、最果ての古書店絡みと。その国でどのような政治が行われるかまでは人の力の範疇にある
・免許!藍さん免許お持ちですか!
→……田舎の子どもは免許取りたてでもなぜか車やバイクの運転が抜群に上手いという話を聞いたなあ。松山も高松も都会なんだなって
・「ブレーキ!」「分かった!!」(アクセル追加)
→確かに自走二輪は物理法則の上では車輪が高速で回っている限りはひとりでには転倒しないけれども!
・二階堂藍は立ち止まらない。けっ
・「頭で考えることはね、想像できることはね、何でも可能に出来ることなんだって……誰かが言ってた」
→結局私は、この者に囚われているだけなんだなって思わされる。本当に「けっ」だよ全く。なにを言っているのかって、なにかでこのように書いたことを覚えているのだ。今手元にあるから書き出しておこう
→…………けっ!!(まけおしみ)
・浜辺、神さまの詩。いろセカかサクラノ詩かTrymenTか、そのどれかでも扱われていたな。おそらく『Footprints(足跡)』という詩だろう。ググってペースト、和訳は弓川。
→でも、この精神性があるからこそ、藍は最果ての管理者足りえたんだなと
・夕暮れを背に、藍がユウマの手を取る
・難しいままでも、生きているのならそれでいいじゃないか
→幸せってなんだよ。なんでそんなことを考えなきゃならなくなっちまったんだ。自分が幸せかどうか知らなければ、その瞬間こそが幸せの最大風速になるって信じてちゃ駄目なのか?どうしてだ、どうしてなんだよ本当に
簡単な話だ。とても、とても簡単な話なんだ。
私に神はいない。仏もいないし、死後やその先の世界も無い。
即ち私にあなたはいらず、つまり私に君はいらない。それだけだろう。
というかあると困る。私を背負わせること、私を愛させることが苦しい。なにより、失った時に耐えなければならないのが一番の苦しみだ。
無償の愛って言うけどな、タダより高いものは無いって知らねえのか。
少しぐらい、愛されている側の気にもなってくれよ。
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