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トラペジウムを見ました

前書き

 こんにちは、インターネット等で弓川と名乗っている者です。2024年6月8日午前8時、話題になったりならなかったりしていた映画『トラペジウム』を観賞してきました。
 こちらの記事では、感想というほどでもない思ったことを覚えているだけ書いてみます。ネタバレ等気にせず書くのでまだご覧になってない方はブラウザバックを推奨します。
 内容ですが、感想文というよりメモ紙のようなものだと思ってください。画像も入れないので目が滑ることうけあいです。
 あと私は自分の思ったことを人に伝わるように意味を変えて伝えるのが苦手なので、おそらく造語の嵐になると思われます。ご了承ください。



中身

 トラペジウムという作品について。面白かったかと聞かれると「つまらなくはなかった」と答える。楽しかったかと聞かれると「楽しくはなかった」と答える。
 見ていて苦しかったり辛かったりしたかと聞かれると「人によっては結構そう思う人もいそうな内容だったけれど、私は特にそんなことはなかった」と答える。
 良かったかどうかと聞かれると「良かった!」と答えられる。そんな映画だった。

 持論。この世には【熱】と【流れ】があって、熱には温度が、流れには勢いがある。それ以外にも【形】とか【魂】とかいう自分でもよく分からなくて上手く説明できないものがあるけれど、それは一旦置いとこう。それぞれの意味はフィーリングでなんとなくで想像してくれ。
 そういう観点での話をする。この映画に「熱い温度」があったかと聞かれると「ほっとんど熱くなかった」と答える。この映画の軸になっているものが【熱】か【流れ】のどちらかと聞かれれば、私なら【流れ】によって書かれた作品だと答える。別に熱が無かったわけではないし、流れ主導だから悪いってこともないのは補足しておく。


 作品全体の構造について。この作品は3つのパートに分けられる。ゆうがメンバーを集めてアイドルになっていって1曲目を作ることが決まるまでと、1曲目の収録からアイドル活動を経験しゆうが事務所をやめるまでと、そこからエンディングの終わりまで。それぞれ①②③と番号を振る。

①正直に言うと「描写不足」を感じた。説明不足ではなく描写不足。言葉を使わずに熱を伝えようとするのなら、使えるものはそれ相応にとにかく使って手を尽くして、そして「言わなくても分かるだろう?」としたり顔で読者を分からせるだけのパワーが必要になる。
 作者がそれをしようとしてこうなったのか、それともそれをすることを放棄したのかは分からないけれど、私には物足りなかった。一言でいうと、少なくともこの①については「厚みが薄かった」と言いたい。これはたぶん結構言われてるんじゃないかな。

②1曲目で東西南北が踊っている時、私は確かに熱を感じた。でもそれはぜんぜん熱くなくて……これはすごく説明が難しい話だからめっちゃ造語で失礼するけど、とても冷たい熱だった。人に感動を与えられるだけの温度がある冷たさだったと思う。東ゆうの色はここが一番出てた。
 そこから色々あってサークラまで。細かいことは後の項で書くけれど、エンタメとしてはここが一番面白かったんじゃないかな。主に映像面でだけど、些細なことを積み重ねての心情描写や先の展開へのステップに巧さを感じられた。

③物語だからねってパート。主人公は成長するものらしい。列車は必ず次の駅へ、ではアイドルは?
 熱情で書かれたパートじゃねえなって思う。おかしな電波を受信させず、型にはめてこう書かれるべくして書かれたなと。私はそこまで思わないけど、人によっては(①の「厚み」とはまた別の概念として)「ペラい」と思うかもしれない。
 でもいいじゃん、ハッピーエンドだよ。世界の大きな流れには逆らえなかったかもしれないけれど、みんなちゃんとそこに自分の意思で生きてたよ。これをバッドエンドにしなかったのはちゃんとしてる証拠だ。これでBAD行ってたら普通に「好きじゃない作品でした」って言ってたかもしれない。



 この作品の瞬間最大風速について。それは間違いなく、高専祭の10年後写真館でメガネくんが不意に撮った1枚の瞬間。あそこがこの作品での熱の温度がいちばん高かった。
 あれを見られただけで私としては結構満足したけれど、エンドロールの一番最後にあの1枚が持ってこられたのを見たから私は今こうしてキーボードを叩いている。
 最後があのカットじゃなかったら、たとえばその一つ前の"10年後の"《トラペジウム ~10年後のあなたに~》で終わってたら、私は「トラペジウムは楽しくも面白くも苦しくもないけどまあ良い作品だったんじゃないですか」ってさめざめと言ってたんじゃないかな。あそこからメガネくんのカメラに切り替わって時間が高校生の頃に戻っての1枚だからこそよ。
 トラペジウムという作品が映画として展開される理由はどこにあるか?と聞かれると、その最後の1枚に全て集約されると答える。「上映」の一番最後にあれを見せるのは(当然だけど)映画にしかできない。一番最後にあのカットを持ってくることには、それくらい重要な意味があると私は思う。


 東ゆうについて。彼女に黒色は似合わなくて、彼女の衣装ほどは明度が高過くないネイビーブルーがよく似合う。
 ゆうが悪人であるかどうかという観点でも、やはり彼女は黒色ではない。彼女の瞳のような青灰色だ。本人に「嫌な奴」という自覚があるとおり、母親も安直に慰めるのではなくゆうの言葉をある程度認めて通したとおり、善か悪かの二極で考えるなら彼女は悪なんだろう。

 それでも彼女は黒色ではない。解散が決定的となったくるみの精神不調のシーン。あそこでふたりの言葉を聞いて「その場から逃げる」という選択を取ったゆうは、悪一辺倒なデザインをされていない。
 怒りに身をやつして、崩れ落ちた美嘉の胸倉を掴み上げて立たせ、蘭子に自己正当化論を叩きつけ、別室に行ったであろうくるみのもとへ行って、美嘉が彼氏バレした時の絶対零度の瞳を以て張り手をかます……ような「悪」ではないだろう。そこまで行けば私はゆうのことを東ゆうと呼んだだろうけど、この作品を良いようには評価しなかっただろうな。
 あと単純な話、過密すぎるスケジュールもあったし、4人の中でゆうが一番ファンレターが少なかったり、ゆう自身も余裕がなくなってた結果ああなったのかなと思う次第。

 事あるごとに発揮される自分勝手さと、それによって発生した関係の亀裂を修復しようとする謝罪の言葉の両方を、メンバー3人は高校生の時もアイドルの時もその後でも、そしてきっと10年後でも呑んできた。呑めるだけの関係性だった。彼女が「悪」ならこのような物語にはならなかった。だから今私はこうしてキーボードを叩いている!

 ただ……そっすね。人間は光るか否かでいくと、アイドル(タレント?)として身を立てた10年後ゆうを見ても、私は彼女から光を見なかった。彼女は(私には)星にならなかった。私が彼女に輝きを見たのは、高専祭のあの写真の時くらい。それだけで私は満足だがな!


 映画としての在り方について。上でも書いた通り、私はこの作品を映画でやる意味があるとした。でもそれはそれとして、この作品が映画という媒体で存分に活かされていたかというと結構怪しいと思ってる。

 音響は特筆するものが可不可なかった。いっちばん最初の鼓動にも似た音は良かったし、作中歌のシーンもEDもグッドだったけれど、そこ以外では世界から音が流れている感じがあんまなかった。私はね?
 テンポというか間の取り方は微妙だった。もっと間を持たせてほしいところも、もっとハイテンポに進めてほしいとこも両方あった。これはたぶん私が1回観ただけでは諸々の機微を掴み取れなかったってのが大きいと思う。

 美術は結構良かった。雰囲気づくりにちゃんと貢献してるというか、かなり力入れてるなこれってなった。光とか色彩配置とかの視覚情報による物語への引き込み方については、相当ちゃんとした人がやってんじゃない?って思えたな。
 でもそれは上で書いた②から顕著だったって話で、①は本当に……こう、なんでもっと色々と分かりやすく厚くしないの?って思った。導入だぜ?観客が目に見えてワクワクするような方針をお取りにならない?いや別に①だって楽しくなかったわけではないけどね?


総評に向けて
 
東ゆうは確かに、強い「ある特定の方向に進む力」を持っていた。そしてどんな紆余曲折があろうがあろうとも、きっとその方向自体が変わることは無かっただろう。
 作中では10年後にはアイドルになれていたが、仮にその夢が叶わなかったとしても、彼女は自身がその方向に殉じたこと自体を最期の日に後悔することはきっと無い。しかし、CDの発売日に4人が改めて集ったあの(ご都合な)日まで、彼女には知らないことが3つあった。
 ひとつ。自分の方向が変わることは無くとも、その方向から生まれたムーブメント……推進力については、他の力の影響を受けてしまうこと。
 ひとつ。方向があるのは自分だけではないこと。南に西に北に、その他事務所やら世間やらなんやら、彼女の知らない推進力があること
 もうひとつ。世界には大きな大きな流れがあって、人ひとりの推進力ではその流れは基本的には変えようがないこと。

 東ゆうは自分勝手で自己正当化しがちな、それでいて黒に染まりきれない人間だった。彼女は全て自分の思い通りになるものとして計画を立て努力を重ねるが、その実行き当たりばったりでワンミスでも起きた場合のケア策すら考えていない。彼女が本来向かっていた方向は容易に別の方角を向く。
 それでも彼女が、自らの信ずる方向へと進むことが出来たのは、別の推進力が彼女の力の行く先をうまい具合に変えたからであり、彼女の推進力が本来別の方向を向いていた力の行く先を変えたからでもある。

 また、彼女は東西南北として活動した経験が無ければ、おそらく一人ではアイドルになれなかった。何度も何度もオーディションに落ちたままだったろう。「城州の東西南北で美少女を集めてキャッチーさでアイドルとして売り込もう!」という発想と、それを実行するだけの行動力が無ければ、世界の流れは彼女がアイドルとして大成することを許さなかっただろう。


総評

「ひとりでは星座になれなかった星が、その理由を知る物語」
 トラペジウムとは台形を意味する言葉。作中の冬に何度も空に映し出されたオリオン座にも、なにか関係する言葉があった気もする。
 南のサイフ、西のベテルギウス、北のベラトリクス、東のリゲル。一番大きいのはベテルギウスだけれど、リゲルの青白い輝きだって負けてない。そういやベテルギウスは(何十万年後に)爆発するって話もあったな。夏の夜には見えずとも、歪な四辺形は今も夜空に光っていることだろう。
 音楽については……書いてたら長くなりそうだからいいや。あの音楽らを単体単体で見れば結構熱さを感じられる良い曲だとだけ。


 環境の作り込みや序盤の引き込みはもう一声ほしかったところですが。面白いか楽しいかは別として、見ることが出来て良かったと言える作品でした。良かったですよ、『トラペジウム』。




……南の財布!??!?!?(序盤のプールを思い出しながら)


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