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2月27日

多くの人がそうであるように私ももれなく読書が好きで珈琲が好きだ。
変な話、文字を見ているだけでドキドキするし、本を開いて読む人の姿を眺めるだけでいいなあと思う。珈琲にいたってはもうほとんど飲めていないのに、匂いだけで満足できるし、これまた人が飲んでいるだけでなんだかうれしい。

私はただ単にイメージがすきなだけなのかもしれない。

思い出してみれば塾に通うのは嫌でも、雑誌で特集されている「気になるあの子の持ち物」みたいな括りで塾バッグの中身がずらっと並べられて、その中にかわいい雑貨、筆箱、リップ、キーケース、ノート、みたいなこまごましたものがあふれているとたまらなくなってきて、塾行く!などと思う。私は塾に行きたいのではなく、そのバッグが欲しい、もしくはそのバッグを手にしてどうにかしたいというそれだけなのだ。欲望をいつも取り違える。というか、その欲をどう充たしたらいいのかわからず、真正面から、誰かの作為的なストーリーに乗せられてしまう。それで塾とか行ってみて、げんなりする。結局のところ、少しでも長く夢見るためには、自分でストーリーを編み出すしかないのだ。もし誰かのストーリーに乗ってしまったら、手に入れたかったものからどんどん遠のいて、何が欲しかったか、わからなくなってくる、そんなことが何度も何度もあった。

ここまでの文章は先週書いたもので、これを書いた後、ふと三品輝起さんの『すべての雑貨』『雑貨の終わり』のことを思い出して読み進めた。
雑貨化すること――流通速度を上げるために物を断片化し、同一のフォーマットに並べる、根っこがない(文脈から切り離されている)から、物語を捏造することができる。それも都合よく。そうしてどんどん消費のスピードを上げていく。
私はそういう誰かの文脈にまんまと乗っかってきた。それはシェーカー教徒たちの生活を都合よく(神や性愛の厳格な規制などを取り払い、残りの気高い自給自足生活という方法だけをまねるように)解釈した自らの行いを振り返り反省するか否かで言えば、「しない方」の安易な倫理に従って作られた、経済の奴隷として作られた文脈に、わかりやすくのせられてきてしまったのだ。だから、消費しつくすたびに、何も積み上がっていかない物足りなさ、決定的な違和感を抱いたまま、すぐまた次の何かを探す、その繰り返しだ。

雑貨化を抜け出すために、堀江先生は『雑貨の終わり』の書評で次のように言う。「他人の物語を受け入れる耳を持ち、自分の物語を人に押し付けず、双方を包む言葉に近づくこと」。

物語、と言う言葉で思い出すのは按田優子さんの「要は他人の物語を生きないということ」という言葉だ。他人の物語を都合よく自分に当てはめて、生きようとすること、わかりやすいものだけを実践すること、その繰り返しで消耗している私に沁みる言葉。自分の物語を見つけられないうちは、人の物語をわかった気になってまねし続けるだろう。

もちろん、憧れがあるなら、その文脈を丁寧にたどり、尊重する、その倫理観を持ちたいと願うのだ。それが、「つま先立ちで立っている小さい足場」のようなものだったとしても。

そしてこういう、さまざまな人の言葉を寄せ集めて、自分の考えを少しでも推し進めようとする私の姿勢が、誰かの物語を都合よく捻じ曲げてはいないかと怖くて怖くて仕方がない。それでも、自閉するよりは、誰かの言葉に耳を傾ける筋トレのような形で、本や記事を尊び自省する日々を繰り返したいと思っている。

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