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はじめに〜貴様いつまで表現者でいる気だ問題〜

箱囲亮太という名前で浪人時代に短歌を書いて、大学二年でこの名前で芝居を作って、何本かやった後に様々な人に迷惑をかけてプッツン。したのが約二年前。

ワタクシ、あいも変わらずウダウダ生きてます。友達いない、単位取れない、映画面白い。ものを書くのも意外に面白い。迷惑をかけた方々には大変申し訳ないですが。

このことを少しでも断っておかないとまた何かを発信するのが怖くて怖くて。正直ようやくここまできたかという感覚でもあります。さらにはこの記事をみて思いっっきり嘲笑の笑みを浮かべる人間の顔がいくつも浮かびます。でもやります。でもやるんです。しょうがないでしょう。こんなことしかできないんだから。

Twitterもフェイスブックも端から辞めていって、どこにいくにも「なにもできんかった自分」として過ごしていく日々。その中でたまたま寺山修司の句集の序文に『今は全てを忘れてしまいたい。読むことで、また、書くことで』みたいな文章を見つけてしまったのです。そこからスッパリというわけではなく、徐々に読めなかった本を読み、きけなかった音楽を聞き、映画を見て、生きながらえることができました。フィクションに救われてきたという僕はなにができるのか。そもそもなにも作れなかった人間が人が作った物についてとやかく言えるのか。不安は多い。

大学内で辛うじて僕と仲良くしてくれる人に勧めていただき、筆不精で自己顕示欲の塊の私がnoteを始めます。どうぞよろしく。

2019.11.24



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