◆(不要)情報過多は「こじらせる」

noteでこうして「発信」(…ちょっと恥ずかしい言葉ですね…)という行為をしながら、こういうことを言うのは自己矛盾以外の何物でもないのですが、情報が多すぎるということは、個人の生活の質を確実にさげてしまうように思います。

たしかに、物事を判断して、決定して、何らかの行為に至るプロセスで、その物事に関する情報は、少ないより多いほうが、よりよい判断や選択につながりそうな気がします。しかし、ほんとうにそうでしょうか?

もちろんそれは個人差のあることで、また何を基準に多い少ないを決めるのかも難しいので、これはあくまでまた「私個人にとって」ということなのですが、少なくとも、「特定の人や物事に対する根拠のあいまいな事柄や、特に不安や心配、憎悪などの負の感情についての情報」は、物事を前にすすめるためのアクション(判断、決定、行為)とは一旦切り離して、外部に発信することなく、自分の内面のある空間に「流して」しまったほうがよいように思います。

人間だれしも、自分がそのような負の内面性に支配されたときに、苦しいので、それに耐えきれず、だれかにそれを共有し、肯定してもらうことで安心を得たいときはあると思いますが、そういうことは信頼関係があり、同じ立場や、同じものを共有していて、そういう情報を共有してもらうことをあらかじめ互いに了解している人同士の間でのみ有効なのではないでしょうか。

そして、もし、自分がそういう自分にとって大切な問題に関する不必要な情報に触れてしまったときは、まともに受け止めて「こじらせる」より、まず、「流す」ことでとりあえずしのぐ。特に、ネットなどの匿名性の高い情報ではなく、容易に無視できない現実に出会う可能性のある具体的な相手からの「こじらせ」情報は、「流す」のがなかなか難しいのですが、そういう情報は情報そのものだけでなく、その情報を共有する時間、そしてその時間がすぎたあとも、自分の心の中に残像のように負の感情が残り、何度もリフレインを繰り返し、判断や選択の邪魔になるだけでなく、大切な時間や体力や気力も失われるのです。

若いころは、様々な「うさばらし」をしたり、受けたダメージからの回復も比較的早いのですが、シニアになると、ダメージからの回復が遅れるどころか、何のダメージか忘れたころに、ダメージが心身に表面化することがあるので、二重にやっかいです。(今、一週間前に「こじらせた」件で、背中の凝りが半端ないです^^;)

自分にとっての「不要情報過多」は、失礼にならない程度に受け流す。ついつい熱くなって「こじらせ」がちな私ですが、これからはさらっと平和にすごしたいと切に願う日々であります(日々反省)。



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