見出し画像

★『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』村上春樹

ファンタジーでもユートピアでもなく、確立したシステムや合理性でもない、 「個」としての人間の境界さえ曖昧な、不確かなこの世界

まだ存命中ではあるが、村上春樹の前期ともいえる時期の集大成であり、今でも多くのファンが、おそらく村上文学の代表作の一つと考えている作品、
それがこの『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という長篇作品だ。

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』

この作品は1985年に書下ろしで出版され、私が現在所持している版は、1987年で第19刷となっている。
いかに本書が、当時広く読まれていたかが分かるだろう。
そして今年(2023年)出版された新刊『街とその不確かな壁』は、この旧著の続編とも目される作品だということなので、この新著を読む前に、ぜひとも旧著の方を再読しておこうと思った次第だ。

刊行されてから40年近くの年月が経ったことで、この『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という作品は、もしかしたら、やっと正当に評価される時を迎えたのかもしれない、と思う。

発刊当時のこの作品の世間的な受け止めは、ほぼリアルタイムでこの作品を読んだにもかかわらず、ほとんど忘れてしまったけれど、私が今でも一番印象に残っているのは、当時通っていた大学のゼミの担当教官が、

「これは凄い作品だよ。日本文学の分水嶺になると思う」

と、めずらしく熱を込めて語り、ぜひこの本を読んでおくべきだと言ったことだった。
ちなみにその教官の専門は近代日本文学、しかも石川啄木だったので、その感想云々以前に、彼が村上春樹の新刊を手にとったことをとても意外に感じたのを覚えている。

当時、自分がどんな気持ちで村上春樹の作品を読んでいたのか、記録が無いのでよく覚えていないのだが、自分より少し上の世代のこの作家の作品を、
理屈抜きで、ほとんど違和感なくその物語世界を辿り、楽しんで読んでいたと思う。

しかし、その楽しさの由来を説明しろと言われても上手く言葉にできなかったし、たとえできたとしても、それは十分にこの作品について語ったことにならないだろうことは、なんとなく分かっていたのだった。
(実際、今でも上手く説明できる自信はないのだが…)

そしてまたうっすら覚えていることといえば、この作品は好きか嫌いか、あるいは名作か迷作か、評価の分かれる作品だったということだ。
それまでの読者も、村上作品がますます好きになって魅せられた人と、この作品で村上作品から離れた人とに分かれたと思う。
少なくとも、私の周りの人間の評価は、こんな感じだった。
そういう意味でも、この作品はまさに「分水嶺」と言えるのかもしれない。

         ф       ф       ф

今回、久々にこの作品を読みなおしてみて個人的に思うことは、この作品は、物語としてのエンターティメント性を十分に発揮しながら、同時に、簡単には答えの出ない重く深いテーマ性を有した作品だということだ。

小林秀雄がかつて「菊池寛論」の中で語ったという、「通俗性はない、大衆性だけがあるのだ」という表現にも、通じるものがあると思う。
(この作品については、「大衆性だけがある」とは思わないけれど…)

おそらく、かつての私がそうであったように、楽しんで読んで終りでも、それはそれでこの作品の楽しみ方の一つであり、作者自身もそういう読み方をされても、「どうぞどうぞ」という感じなのだと思う。

ただ楽しんで読むのもアリだし、読むことで自分が抱えている不可解さが一層深まったとしてもそれは大いに悩むもヨシ、さらにもしかしたら不安や悩みが少し違った角度でみれるようになるかもしれない、そうなったら儲けもの…とにかく、読者次第でどんな読み方もできる作品だと思った。

そして一人の人間が読む場合も、読むたびにまた違った表情を見せる作品──これは名作といえる作品の特徴ではないだろうか。

私自身は、上記の通り、若い時分はただ楽しんで読んだクチだが、今回読み返してみて、年齢を重ねたせいか、とてつもなく難解な作品──作品自体が難解、というよりも、ここに書かれていることを、自分自身の人生の選択肢として考えた時の困難さに、読み終わった後、しばし嘆息してしまった。

この作品のリアルさが身に沁みてしまった、という感じだろうか。

       ф       ф       ф

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という作品を一言で表現するのは難しいが、この物語が読者に投げかけているのは、人間の生の根底を支えているものは何か、という問いかけだ。

あるいはそれは、人が生きている本当のリアルな世界とはどのようなものかということ、そしてそれが本当に、その人が依って立つことのできる世界なのかどうかという問いかけ、と言い換えることもできる。

そしてまた、人間の意識というもの、あるいは精神──<心>という目に見えないけれど、この世界(と人間が自覚している日常的リアル世界)を成立させている人間の内にある根源的な力とは何か、その本質を突き詰めようとした作品、ともいえる。

一言、といいながら、ズラズラと自説を並べ立ててしまったが、この作品は前述の通り、面白い冒険譚でありながら、答えを出し難いいわば人間にとって永遠のテーマともいえる問題を、一人の人間がどう受け止め結論を出したのかを描いた物語だ。

他の村上作品も、このような問いかけが為されているものは多いが、この作品は、それまでに書かれた同様のテーマの物語をさらに深め、また公正に読者に伝えようとする作者の強い意志を感じる。

そしてそれを可能にする表現──物語のテーマの設定と構成の緻密さ、平易な言葉を使ったリズムの心地良い文体、そして何よりそれまでの日本文学の主流にはない、新しい姿勢の感じられる作品でもあった。
(1980年代において、ということなのだが)

人間にとって、どうにもならない問題や、難しい現実について語ろうとすると、多くの作家(特に日本の作家)が、自身のベタな感情や内面的な苦悩──
憐憫や哀惜、そして諦めや呪詛を文字通り、ベッタリそのまま披瀝してしまいたい誘惑に陥ってきた。

ただ、これは人間だれしもが持つカタルシスというセルフヘルプの一方法であり、それを書くこと、そして読むことによって自ら救済しようとする試みは決して否定されるものではない。
しかし少なくともこの作品からは、そういう感情的な鬱屈が個人的にはほとんど感じられなかった。

村上春樹の作品がすべてそうなのかどうかは、まだ分からないが、(『ノルウェイの森』あたりが論争になりそうだ)少なくともこの作品は、そんな「どうにもならなさ」に対する感情的な撞着はあまり見られない。

主人公はたしかに、とてつもない状況に惑い、大きな感情の揺れをみせるが、それを嘆き悲しむ暇さえ、物語は与えない。
むしろ、そこに留まることの安逸さや危うさを指摘し、さらに、諦めた人間に対する安らぎという恩寵さえ与えようとしない。

きっと作者は意図的に、表現としてそのような感情的な拘泥をそぎ落とし、そこから離れようと努め、それでも主人公に生きるべき道を見いださせようとしている。
そしてその生きる力の在り処を確かめるために、物語の設定や構成を練ったのではないだろうか。

       ф       ф       ф

この作品は、二つの世界から始まる。
一つは「私」という語り手が生きる「ハードボイルド・ワンダーランド」篇で描かれる世界。
もう一つは「僕」が自身の<影>を失って生きる「世界の終り」篇で描かれる世界。この二つの世界が交互に描かれることで物語は進行する。

この手法は、後の村上春樹の作品、たとえば『海辺のカフカ』や『1Q84』などでも同様の設定として登場してくる。
いわゆる「パラレル・ワールド」と呼ばれるSF世界の物語のように、別の世界が同時的に存在し、互いに微妙に関係し、影響し合いながらそこで生きる者の生の本質を明らかにし、その運命を形造っていく構成だ。

「ハードボイルド」篇に出てくる主人公(語り手)「私」は、「計算士」という、今の言葉でいうとAIのように、情報を取り入れるだけでなく、「使える」形として情報を再構築し保持する、いわば「人間AI」のような存在なのだろう。
「私」はその中でも特に機密性の高い仕事を請け負えるような、高い能力のある「計算士」だ。

「計算士」の「私」は、哺乳類の頭骨を研究することで、音を自由に操る方法を知った老人の元を訪れ、その研究データを数値リストとして預かるが、同時に老人から奇妙なプレゼントを受け取る。それは一角獣と呼ばれる伝説の動物の頭骨と思われる骨だった。
やがて、帰宅した「私」に危機がおとずれる──。

この作品が発表された1980年代には、ITという言葉もまだ一般的ではなく、未だスマホはおろか、個人でコンピュータを持つ時代が来ることさえ、多くの人は意識していなかったと思う。
(私自身が初めてパソコンに触れたのは、アメリカ留学を終えて帰国した経営学部の助手に、彼が持ち帰ったマッキントッシュの初期モデルを触らせてもらった1987年のことだった。衝撃だった。。。)

そういう時代に、すでに<情報>というものと人間の意識との関わりが人の生きる場に大きな影響を及ぼすこと──場合によっては、世界をまるごと変えてしまうようなパワーを持ち得ること──を、バリ文系(であるはず)の作家が、この分野の重要性とやがておとずれるだろう未来の姿、そしてそのとき人間に起こる問題をすでに40年前に、恐らくは相当な危機感を持って、ガッツリと感じとっていたことも、今となっては驚く他ない。

この物語の中で<情報>は、金銭的な価値のあるもの、つまり実利的な利益を生むものとしてだけでなく、それを使う人が一たび権力とある種の悪意を持てば、その人が自由に他者を操作できて、世界の在り方を変えるほどのパワーをもつものとしても描かれている。

そしてそれは負の力、物語の中の言葉を借りれば「理不尽で強い力」──それは人間に由来しながら人間的ではない邪悪といってもよい力の象徴でもあることが伺える。
この<情報>と人間の生との問題も、この作品の一つの大きなテーマと読むこともできるだろう。

しかしこの物語は、今日、AIの進化によって顕在化しつつある問題を単にいち早く指摘したことで終わる物語ではなかった。

この物語が、そのような「理不尽で強い力」に、人間がどのように対峙し、それを乗り越えて人間性の優位を取り戻すことができるのかを描いた物語であれば、定番のファンタジーとして、すんなり読めて、「めでたし、めでたし」で気持ちよく終われる物語だったのだろう。

しかし、その期待?は見事に裏切られ、同時にそれだからこそ、今でも、読み返す価値のある作品として、数え上げられる作品となっているのではないだろうか。


そしてもう一方の「世界の終り」の物語も、その幕をゆっくりと開けていく。
「世界の終り」の風景はまずは「金色の獣」、一角獣の描写から始まる。
一角獣(ユニコーン)については諸説あると思うが、この物語の中でもそれは、遠い昔に存在した「かもしれない」伝説の哺乳類として設定されている。

そして「世界の終り」の街では、その一角獣が生息していて、どうやらその世界の中で大きな役割を担っているようだ。
(ついでに言えば、この一角獣が生息していたと「ハードボイルド」篇で述べられている「失われた世界」がウクライナあたりだったという設定も、なんだか預言じみた偶然(必然?)で、少し背筋に冷たいものを感じた)

この時点で読者は「世界の終り」と呼ばれるこの世界が、いわゆるリアルな世界ではなく、過去に<失われた世界>か、または今まさに、さらにこれから<失われる世界>であることを意識するだろう。

何らかの形で、「ハードボイルド」の世界に居るはずの「私」、あるいは「私」のある部分が、「世界の終り」の世界──それは過去なのか、未来なのか、あるいは本当に存在しているのかも分からない実体のない世界──に入り込み、<影>を失って「僕」として生きている、と。

「世界の終り」の街で、「僕」は動物の頭骨から発せられる古い夢を読む「夢読み」という役割を課せられる。
それと同時に、切り離された自身の<影>から、この街の地図を作るように依頼される。


このように、この作品を構成する二つの物語──一方のパラレル・ワールドは、少なくとも表面的には、それなりにリアルで安定した日常世界をもっている。
この世界は、ある日突然不条理に破壊された「私」の物語であり、その象徴
として存在するのは「理不尽で強い力」を持つ<情報>だ。

そしてもう一方は、すでに何かが<失われた世界>を彷徨う「僕」の物語であり、その象徴として存在するのは街を外界と隔てる巨大な<壁>、そして「僕」にとってはなくてはならないものとしての<影>であり<心>だ。
「僕」はその二つを失いそうになりながら<壁>により街に閉じこめられている。ここは文字通り<世界の終り>なのだった。

これは破壊と再生、喪失と回復の物語であり、「私」と「僕」それぞれが<失われた世界>と自身の生を取り戻すべく行動する。
そこに「何故?」という問いかけさえゆるされず、事態を回避する選択肢さえ与えられないという意味において、これはまさに<戦争>といえる事態なのかもしれない。

 「金なんてこの際たいした問題じゃない。これは戦争なんだ。
 金の計算してちゃ戦争には勝てない」
 「僕の戦争じゃない」
 「誰の戦争かなんて問題じゃないし、誰の金かも問題じゃない。
 戦争とはそういうものだ。まああきらめることだな」(本文p219)

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』

しかし物語の始めでは、「私」も「僕」も、どんな相手と、何のために闘っているのかさえ知らされない。
物語そのものが理不尽で不条理な形で始まり、続いていくのだった。
彼らは「自分の心を見定めることができないまま行動を選びとっていかなくては」ならない。
やがて「私」と「僕」の喪われた何かを取り戻す闘いが始まっていく。

       ф       ф       ф

物語の後半部分は、「私」もしくは「僕」が、どのようにして<失われた世界>を取り戻し、「世界の終り」を回避するのか、その終結に向かって物語は進んでいく。

そして、世界が終ることが回避されるには何が必要なのか、そもそも何が失われ、そしてそれはどうやって回復されるのか、その一点に読者の興味は絞られていく。

そこには当然、試練や不運がおとずれ、不安や苦痛が生じる。
それを乗り越えた先にあるものは何なのか、<アナザー・ワールド>は出現するのか…。

人間をその人個人として成立させているもの、それは<アイデンティティー>だと博士は言う。
それは言い換えればその人独自の思考システムであり、それを成立させているのは、本人さえその全貌を把握することが出来ない複雑に入り組んだ「深層心理」──未開の大地とも呼ばれる無意識の世界だという。

「僕」と「私」は自身の無意識をも含めた<心>を取り戻すため、そして、彼が「生きたい」と願う、平和でささやかな日常という名のリアル世界を回復させるために行動する。

読者は彼らと一緒に、不安や苦痛に耐え続け、この複雑に<失われた世界>をどうしたら抜け出れるのか、<世界の終り>を彷徨い続ける。
そして最後に、到達した世界とは…。

 僕はときどきこんな風に思うことがあるんだ。
 僕らはみんな昔まったく違う場所に住んでまったく違う人生を
 送っていたんじゃないかってね。
 そしてそういうことを何かの加減ですっかり忘れてしまい、
 何も知らないままにこうして生きているんじゃないかってね。
(本文p61)

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』

この物語を、「本当の自分」探しの<ファンタジー>として読みたいという
読者としての嗜好を持って辿っていくと、やがてそれは不可解な結末に裏切られる。
この作品は少なくとも──希望に満ちた、誰が読んでも「よかったね」と安心できる物語を提供しない。

<ファンタジー>の定義は色々あるのだろうが、それを、子どもたちも安心して読める世界観をもった物語と定義すれば、主人公と彼らを是とする世界は、彼らにとって大切なモノやヒトを奪還し、あるいは再生させて、苦難を乗り越えて長い旅路を無事に故郷に運んでくれる物語だ。

そして主人公の前に最後に開ける世界は、安寧と調和に満たされた、本来の姿の彼らが、本当の生を営むべき世界だ。
そこに至る過程において、主人公が乗り越えられない不幸は無いし、打ち負かせない悪事は無い。
そこには善か悪か、是か非か、といった分かりやすい一元的価値観なりシステムが存在している。

ある時期までの子どもにとっては、このような調和的世界の存在の可能性を
伝えることと、自己肯定感を支え、博士が言うようにまさに<アイデンティティー>を健康に育むための物語はたしかに有用なのだ。

しかし、この『世界の終り──』の物語で作者は、そのような、誰もが安心し、納得できる結末を提供しない。
この物語は、それほど個人的な内面の在り方と選択の物語であり、複雑で多様な、そして可能性と不確実性に満ちた世界の物語なのだ。

今、手に触れるこの世界、今、私が<私>と信じているこの<私>は本当にリアルに存在しているのだろうか。
この物語の中の二つの世界の「私」と「僕」、そして<影>の物語を読んでいくうちに、読者である私自身も、自分が生きている(だろう)この世界は本当の世界なのか、本当の自分がリアルに生きる場所なのか、分からなくなってしまうのだ。

自分が自分であること──普段ならそんな疑う余地もない自明のことに、外部の強烈な力で揺さぶりをかけられたとき、「個」として存在する人間を、本当に成立させているものは何なのだろうか。
それは時には、本人さえ容易にはうかがい知ることのできない心の奥底、あるいはもっと別の何かによって成立させられている世界なのかもしれない。

物語の終りで、「僕」はある選択をする。
それは一見、「本当の自分」を捨てるように見える行為であり、この部分を読んだ時、私は個人的に、ちょっと裏切られたような気持ちになった。

あんなに苦労して、邪悪なものの満ち溢れた不安な暗闇を潜り抜け、危険を冒して<影>を解き放ち、冷たい雪の中を歩き続けたのに。
<ファンタジー>に育まれて育った子どもの私、そして若かった頃の私は、きっとこの結末を赦せない、と感じるだろう。

しかし、私も歳をとり、もう若いとはいえない年頃になった今、未来へと続く道を探すとしたら、これしかないのではないか、と今は思う。
そして、あらためて30代の若さでこの物語を書いた作者について、単に作家としてだけでなく、人としての想いの深さに驚く他ない。

この物語は、本当の自分探し、自己の回復への旅の物語ではなく、<個>の中に、自分と切り分けることのできない<他>を発見する、そしてその<他者性>とともに生きようとする物語ではないだろうか。

       ф       ф       ф

私たちはきっと、自分で思っているよりずっと、利己的では「ない」し、自分の中にある他者を見捨てること──少なくとも「無かったこと」にすることはできない。
たとえ日常的に関わることが無くなったとしても、そして意識の表面に浮かぶことさえ無くなったとしても。
そのような意味で<心>は、倫理的な意味でも宗教的な意味でもなく、いわば先験的に、すでに厳密に他と区別された個的な存在ではないのではないだろうか。

もしそうだとしたら、その人の生きる本来の場というものも、それはどんなに意識的に他と峻別したところで成り立たせようとしても、最終的には(その人が意識しようがしまいが)利己的な部分以外の何かによって成立「させられる」世界なのかもしれない。

「私」にとってそれは、失われた多くのものの残照であり澱(おり)のようなものだが、それこそが彼を生きながらえさせてきたと自覚する。
そして「僕」にとってはそれは、他者の失われた<心>だった。

「僕」は彼が作りあげた世界に存在する人々や生き物、自然、すべてのものが自分自身であり、それに対して責任があるという。
人の<心>、そして人間の生きるべき世界の在りようは、ファンタジーでもユートピアでもなく、確立したシステムや合理性でもない、さらには人間の自意識の境界さえ曖昧な、不確かな世界だった。

しかし、「僕」が「世界の終り」で最後に見た風景と、最終的に選んだ行為を読んで、「個」という存在がいかに曖昧なものなのか、そしてそれが決して否定的な意味ではなく、人間としての公正な在り方ではないのかと、物語は問いかけたところで終わっている。

 僕の中にしみこんだ彼女の心が体内を巡り、そこにある様々な僕自身の事
 物と混じりあい体の隅にまでしみわたっていくのが感じられた。
 おそらく僕がそれをもう少しはっきりとしたかたちにまとめあげるには長
 い時間がかかるに違いない。
 そして僕が彼女にそれを伝え、彼女の体にしみこませるにはもっと長い時
 間がかかるだろう。
 しかしたとえ時間がかかるにせよ、決して完全なかたちではないにせよ、
 僕は彼女に心を与えることができるのだ。
 そしておそらく彼女は自分の力でその心をより完全なかたちに作りあげて
 いくことができるに違いないと僕は思った。(本文p585)

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』

この作品が書かれた時代以上に、2020年代の現在は、「人間存在を単純化するために必要な寓話性」に満ちている。
多くの人々は明確で合理的で実利的なものを効率的に手に入れることが最も人間に相応しい生き方であるとする時代を受け入れている。

そのような価値観、または世界観からすれば、この作品が描いた「ハードボイルド・ワンダーランド」で描かれた世界には、まだ暴力でさえユーモアの入り込む余地があったし、「世界の終り」の<心>の存在しない完全性の中にも「打ち消すことのできない親密な記憶の絆」があり、それは個を越えて、時空を越えて密やかに光を放ち続けている。

自身の<心>──「自らの意識の核」と切り離されても守りたいものとは一体何なのか──この物語の中でそれは他者の中にある何か──<心>ということしか示されない。
それはまだどこかで聞いた古い唄のように、ただ懐かしく慕わしい存在でしかない。

「世界の終り」の物語の最後の「僕」の選択が、どんな未来を形作るのかは
不確かなものかもしれないが、彼が選んだこの不確かさの正体を知る冒険は、また別の物語に続くのだろう。
ここにはただ、起点としての道しるべが、仄暗い灯として記されている。

最初に紹介した、私の大学時代のゼミの先生が、どのような意味でこの作品を「日本文学の分水嶺」と言ったのか、それは今となっては永久に確かめるすべもないし、私がこの作品を「名作」と思ったところで、それはまた次の物語を読めば、簡単に覆る評価かもしれない。

きっと私自身も、この物語の「私」や「僕」と同じように、自分ではうかがい知れない「自己の核」を持ち、それを高い壁で覆って、自分を永遠に守ろうとしているのだと思う。
しかし、おそらくはこの世界に住む誰もがこの複雑さ、不確かさを何らかの形で引き受けて、守ろうとしても守り切れない不確かな壁、そして曖昧な自己によってしか生きる道はないのだろう。
その結果、どのような物語を生きることになろうとも──。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?