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★『パムクの文学講義: 直感の作家と自意識の作家』オルハン・パムク

楽しみのための読書が、単なる楽しみ以上の意味をもつとき──
読者の内面で何が起こっているのか。

オルハン・パムクは1952年、トルコのイスタンブールで生まれ、1982年にデビューし、その後、2006年にノーベル文学賞を受賞した作家です。

小説家は、文学論、小説論を自ら語るタイプと、そうでないタイプに分かれると思いますが、パムクは間違いなく前者のタイプであり、自らの作品を生み出す過程の方法論に意識的な作家、といえるでしょう。

この本は、2009年にハーバード大学でパムクが行った詩についての連続講義を基にまとめられた彼の小説論、文学論です。

『パムクの文学講義 直観の作家と自意識の作家』

全体は5章に分かれていますが、一貫して語られているのは、作家が小説を書くとき、そして読者がそれを読むときに、頭の中で、あるいは心の中でどのような精神的な営みが起こっているのか、ということです。

そして、パムクがそのような考察を重ね、なおかつそれを講義、あるいは本書のような形で、聴講者や読者にその結果を投げかけているのは、彼にとって作品を書くこと、そしてその世界を読者と共有することが、とても重要なことに他ならないからなのでしょう。

一方は書く側、何かを表現する側であり、他方は読む側、何かを受け取る側であるので、その立場の違いは明確であるはずです。
にもかかわらず、両者の内側で起こることには、その行為の方向性が違うにもかかわらず、その作品が描こうとした世界の本質──パムクは「隠れた中心」という言葉を使っています──が共有され得ることを彼は指摘しています。

作家が生み出した物語世界が向かう「中心」、それをいかに効果的に表現することができるのかそれが作家・パムクの側の問題意識です。
そしてその「中心」をいかに読み取るか、ということがわれわれ読者の側の課題であり、一つの作品に向き合った、立場の違う人同士が共有する一点です。

しかし本来、読書というものは自由なものです。
読みたいから読む、読みたいように読む、この自由さこそが、読書といものの醍醐味に他なりません。
また、読みたいものでなければ、いかに努力してもその作品世界の「中心」に辿りつくことが難しいことは、読者の多くは経験的に知っています。

それでも、そんな自由な立場の読者が、一旦、物語世界に入ると、それを読むことによって、何かを感じ、さらに、作家が何を描こうとしているのかを理解したい、と願う作品と出会うことがあります。

誰か他の人間によって提示された世界の「中心」に何故そんなに惹きつけられるのか。
楽しみのためのはずの読書が、単なる楽しみ以上の意味をもつとき、読者の内面で何が起こっているのか、本書を読むことで、それが少し理解できたように思います。


さらに、作家が自らのテーマを具体的に表現するための方法論として、パムクは、「直感的(ナイーヴ」と「思索的(リフレクティヴ)」という二つの異なったアプローチを指摘しています。

「直感的」な作家とは、自分が小説を書くときに用いているテクニックに無自覚な作家で、それに対して「思索的」な作家とは、反対に、自身の用いるテクニックに、意図的・意識的な作家、ということです。

ただ、このタイプ分けは、完全にどちらのタイプの作家、と厳密に分けるものではなく、多くの作家は、どちらかに傾く傾向はあるものの、両方のアプローチを使って、自らの作品世界を生み出しているようです。
パムク自身も、小説を生み出すためには、最終的には上記の「直感的」な感性と、「思索的」な方法論の両方が必要なのだと述べています。

そして優れた小説とは、「直感的」な感性によって、その物語世界が読者にとって自然なリアルさを感じさせるようなディテールを積み重ね、その結果、読者にとって魅力的な風景を生み出すことに成功している作品です。

さらに、そのような創造(想像)によって読者を物語世界に浸らせ、楽しませながら、同時にその作品世界の主題である「隠れた中心」を持つ作品こそが、長く読み続けられる作品となるのです。
そして、名作といわれる作品、あるいは古典として長く存在し続けている作品は、「複数の中心がある」とのことです!

だからこそ、異なった時代の異なった価値観を持った、異なった個性をもつ多くの人が、それぞれ惹きつけられる「中心」をその作品に求めることができるのでしょう。

パムクさん、納得、です!!

最後にもう一つ、この本を読んで、今まであまり意識してこなかった個人的な盲点に気づかされました。
それは、文学作品は、作者の生まれ育った国や歴史の在り方によって、その成立の仕方も、読まれ方も違っている、ということです。

こう書くと、あたり前のことのように思われますが、私は、実際に翻訳された外国の作品を読んでいるとき、その作品が生まれた背景にまで、考えが及んでいませんでした。

パムク自身、故郷トルコは、いわゆる欧米、西側と呼ばれる諸国とは、文化的にも政治的にもその立ち位置が異なる国です。
日本に生きる私たちと、トルコ人として生きる作家とは、言葉で表現することの持つ意味や緊張感は思っているよりずっと違っているのだと知りました。

文学は本来的に自由な存在であり、読む自由があるのと同様に、作者もまた、自分が書きたいことを書きたいように書くのが当たり前だと思ってきましたが、それは決して「あたりまえ」ではないのです。
これは覚えておいたほうがよいことだと思いました。

そしてそんな違いを越えて共有し得る「中心」とはどのようなものなのか──。

一つの言葉から得られる「中心」は決して、一つの考え方、一つの感じ方として定義されるものではないということを意識して、一つの言葉のなかに、作者が文字通り「隠した中心」を読み取ってみたいものです。

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