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★『二百十日・野分』夏目漱石

新しい社会を生きる、新しい価値観を持った若者を「素材としての人物像」として描いた作品

テキストとして選んだ新潮文庫には、「二百十日」、「野分」の漱石の二つの作品が所収されているが、これらは前者が明治39(1906)年、後者が翌40年に発表された中編小説だ。

漱石の小説史のなかでいうと、『草枕』と『虞美人草』の間の時期に発表された作品、ということになる。

『二百十日・野分』夏目漱石

別々の作品を一緒に論じるのもどうかと思うが、この二つの作品は、一冊の本に一緒に所収されているほど、そのテーマ性に似通った点があるのもまた事実だ。

「二百十日」は自称豆腐屋の倅・圭さんと、経歴詳細不詳だが、「華族にはならないが、金は大分ある」という碌さんの二人が、熊本・阿蘇の温泉宿に投宿し、よりによって二百十日の当日に荒天の中阿蘇山に登り火口を目指す話。

物語のほとんどを、圭さん・碌さんの会話が占め、注意して読まないと(注意して読んでも)、どちらの会話なのか分からなくなる部分もある。

この会話を通じて圭さんの、彼が身をおく社会──財力と生まれながらの身分によって、社会的な地位がほぼ決る社会──への悲憤慷慨が語られるのだが、対する碌さんは、圭さんの慷慨に対して強く反論するでもなく、大部分は軽くいなすように受け流し、時にはユーモアをもって軽くちゃかし、やんわりと反駁したりしているが、おおむね受容的な態度で、そこに圭さんに対する悪意やあからさまな卑下などは感じられない。

そして最終的に碌さんは、文句を言いながらも圭さんと一緒に阿蘇山の火口を目指し、道に迷い、トラブルに見舞われ、疲労困憊しながらも圭さんを助け、共に歩き続ける。

このように「二百十日」は、『坊ちゃん』の流れを汲む圭さんという真っ直ぐで頑固で社会の不条理に慷慨する若者の姿を描いているが、その慷慨や批判を直接社会に投げかける具体的な行動が示されるわけでもなく、それを打ち破る新しい価値観が示されるわけでもない。

ただ、「二百十日」の嵐と、阿蘇登山道中の荒々しい自然に対峙する二人の若者の様子が、圭さんのような若者にとっての社会情勢の厳しさと、それに翻弄される彼の姿を象徴している、といえなくもない。

そしてそれに対して受容的な碌さんを配することで、圭さんのような若者の存在を作者は穏やかに肯定しているようにも思われる。

さらにそれはある意味、碌さんという恵まれた環境の人間にとっても、これからの社会情勢は厳しくなっていくだろう、という暗示なのかもしれないし、少なくとも今は社会に対して違和感をもっていなくても、これからの人生、そんなに思い通りにならないよ、という作者の警告ととることもできるのかもしれない。

いずれにしても、社会に対して批判的な若者・圭さんにとって、曖昧な同調者としての碌さんの存在は、物語のテーマにとっては決定的な対立軸とはなり得ないままであり、それによって、圭さんの慷慨・批判は、まるで火山の地下深くに噴火しないで埋もれているマグマのように閉じられる。

物語全体の雰囲気も、二人が山で嵐にあい、そこから生還するまでの描写には緊迫感が感じられるものの、全体のトーンとその結末までを考えると、会話の軽妙さもあいまって、なんだか落語か漫才の掛け合いを聞いているような、穏やかで洒脱な余裕さえ感じられる。

しかし、その雰囲気が読者にとって読んで楽しい部分でもある反面、圭さんが投げかけている問題意識が碌さんによる中途半端な受容とともに、この軽妙洒脱な語りによって薄まっているような不全感も感じる。

圭さんは物語のなかで、何度跳ね返されても、阿蘇山の火口を目指して登山を試みることを明言し、それは暗に自身を受け入れない社会に対して挑み続ける覚悟のようにも受け取れるが、同時にそれは『坊ちゃん』で描かれた若者の姿から、基本的にそう前に進んでいない感じも受ける。


これに対して次に続く「野分」は、物語の構造の点ですでに、「二百十日」で圭さんが投げかけた問題をさらに深めている感がある。
若者に吹き付ける「嵐」は、一過性の自然現象ではなく、彼らの日常、そして人生を左右する荒天として描かれる。

「野分」は、それぞれ立場の違う三人の若者の内面を描き、それぞれの関係を物語ることで、明治末期の社会を生きる人間の在り方を問う構成にはなっている。

「二百十日」で描かれた圭さんの部分に被る人物像としては、「野分」では、苦学生で就職もままならなず、自分を受け入れない社会に対する鬱屈した不満をくすぶらせている高柳周作という人物が設定されている。

しかし彼には、「二百十日」の圭さんが持っていた、外側に向かって真っ直ぐに発散するような天真爛漫ともいえる慷慨・批判のエネルギーは見られない。
すでに社会に打ちのめされた圭さん、「暗い所に淋しく住んでいる人間」、それが高柳だ。

不平不満を具体的な行動に表わさないという点では、両者は同じと見做すべきかもしれないが、「野分」の高柳の心にあるのは、どこまでも自分の内に向かう社会への負の感情であり、それは同時にそんな社会に対抗できない自分自身への不信感・不全感でもある。
彼は、健康も害してしまい、物語の中では常に暗いトーンで描かれる。

そんな高柳と同じ大学の同級生で友人である中野輝一は、「美しい、賢こい」だけでなく「よく人情を解して理事を弁えた秀才」で、その上出自もよく、お金に不自由もなく、伴侶にも恵まれ、どこをとってもいわば社会の「勝ち組」だが、高柳に対して何かと気にかけ、健康を害した高柳のために、療養期間の費用まで工面している。

この人物も、「二百十日」の碌さん同様、苦労している友人に対して交遊を断つでもなく、見下すでもなく、ただ普通に友人として心配し、高柳に対して受容的な存在として描かれている。

この二人は大学の同級生なのだが、前述の通り出自も性格も真反対なばかりではなく、彼らの文学観もまたかなり違っているのは注目に値する。

中野は自らが書きたい作品について、

 空想的で神秘的で、それで遠い昔しがなんだかなつかしい様な気持ちのす
 るものが書きたい。うまく感じが出ればいいが。(本文p122)

『二百十日・野分』夏目漱石

と語っているのに対して、高柳は

 自然なんて、どうでもいいじゃないか。この痛切な二十世紀にそんな気楽
 な事が云っていられるものか。
 僕のは書けば、そんな夢見た様なものじゃないんだからな。
 奇麗でなくっても、痛くって、苦しくっても、僕の内面の消息にどこか、
 触れていればそれで満足するんだ。
 詩的でも詩的でなくっても、そんな事は構わない。
 たとい飛び立つほど痛くっても、自分で自分の身体を切ってみて、成程痛
 いなと云う所を充分書いて、人に知らせて遣りたい。
 呑気なものや気楽なものには到底夢にも想像し得られぬ奥の方にこんな事
 実がある、人間の本体はここにあるのを知らないかと、世の道楽ものに教
 えて、おやそうか、おれは、まさか、こんなものとは思っていなかった
 が、云われてみると成程一言もない、恐れ入ったと頭を下げさせるのが僕
 の願なんだ。君とは大分方角が違う。(本文p122~123)

『二百十日・野分』夏目漱石

と答える。中野はそんな高柳に、「然しそんな文学は何だか心持ちがわるい」とサラッと答えて、その後の文学談義を自ら打ち切っている。

(ただ、旧来文学の伝統を汲む中野も、自身の恋愛論を語る中で人間の本質について述べている箇所がある。
その部分を読むと、中野も近い未来に、自分の存在を悟り、人間の本質を知ることで煩悶することが予見されているようにも思う。
彼が恋愛と出会い、彼にとっての切実なテーマを深めるのは、漱石の後の作品『こころ』で深められるテーマとして予知されているようにも見える)

この両者の文学観の披歴をみると、この作品を書いた当時の漱石の胸中が垣間見えるように思う。
それは前作『草枕』の画家が、従来の日本の芸術の根底にある「もののあわれ」的な情感から、好むと好まざると離脱していかざるを得ない予感を抱いたように、この「野分」でも表現を志す者が、自分が描くべき、新しい芸術の方向性を、予感から一歩すすんで、より明確に意識し始めている姿を描こうとしたのかもしれない。

それでも、この中野vs高柳の方向性の違いは、「二百十日」同様、決定的な対立や離別を生まず、むしろ旧来のスタイルを維持する中野が、現実の生活に窮する高柳を助ける形で、ここでも受容的、あるいは調和的、悪く言えば曖昧な関係のままに描かれている。

ただ、「野分」が「二百十日」と異なるのは、白井道也という新たなキャラクターを配した点だろう。

彼は自称・文学者なのだが、どうやら世間的に高い評価を得ている作品がまだあるわけでもなく、インタビュー記事や、翻訳などで糊口をしのいでいる、今でいう「売れないライター」のような存在だ。

高柳は白井のかつての教え子で、過去に学校で窮地に陥った白井を「只いじめて追い出しちまった」過去をもつ。
白井の同僚教師や父兄に扇動されてのこととはいえ、高柳は内心、罪悪感をもっていた。

そして中野も、教師を辞めた白井から、偶然雑誌のインタビューを受けることで白井と対面し、さらに高柳も白井の演説会を聞きに行くことで彼と再会を果たす。

物語はこのように、三人がそれぞれ関わりをもつ場面を設定するが、それぞれに異なる社会的立場や価値観を、直接突きつけ合うことはない。
そのような対立によって、物語がダイナミックに動き、新しい価値観なり人生なりが開けることがない点は、やはりまだ漱石の中で、新しい時代の価値を作るための根本的な人間性を見極めるところまで至っていないということなのだろう。

作者としても、作品の中で描かれた物語を見ても、この時点で到達したのは、ただ、自身に見えている社会の矛盾や人間の本質を言葉という形にして表現することで、人びとの精神に楔を打ち込もうといういわば現状分析と決意のみだ(実際にはまだ打ち込んではいない)。

しかも、その第一歩というべき、鶴嘴の一撃は、他力本願、といっては言い過ぎだが、偶然の産物として描かれる。
この物語の結末は、持つ者から持たざる者へと、期せずしてお金が流れることによって終わる、というなんだか落語のオチのような、拍子抜けした終わり方だ。

落語なら、面白いね、良かったね、で終わればそれでよいのだろうが、中野から高柳への憐憫を含んだ友情と、高柳から白井への非の無い人を貶めたという罪悪感に動かされた金銭の授受には、江戸っ子・漱石の本領である、落語的なカラッとした潔の良さや、自オチしても余裕のあるユーモア感覚は伺われない。

漱石先生、ちょっとご都合主義すぎやしませんか? と正直ちょっと苦し紛れな感じの終わり方だった。

したがって、この作品の位置づけとしては、漱石が後に描くことになる作品のテーマ──社会の矛盾、人間の矛盾に人は如何に直面し、そこで如何に生きていくのか──を語るための「素材としての人物像」を描いた作品、ということになるのではないだろうか。

漱石の前著『坊ちゃん』と比べてみると、その作品としての完成度の違いは歴然としていると思う。

「坊ちゃん」はたしかに「二百十日」の圭さんと被る人物像ではあるが、気質・体質的なキャラクターとしてだけでなく、その出自、価値観、他の登場人物との内的な関わり、そして彼の行動とその結果までを描くことで、「坊ちゃん」はその時代の典型としての若者でありながら、個性を持った一人の人間として、共感であろうと憐憫であろうと、読む側の心を確実に動かすリアリティのある存在として描かれている。

したがって、「二百十日」「野分」の二つの作品は、『坊ちゃん』からさらに一歩すすんで、「坊ちゃん」的人間のその次のステップを描く位置にありながらも、それを一人の人間の経験の過程、あるいは一代記として描き切るところまではまだ到達していないように思う。

それを「しなかった」のか、「できなかった」のかは、正直分からないが、漱石が、社会的立場の弱い明治知識人が如何にして自身の本質でもって、社会に自らの居場所と生きる意味を見出すのかを模索し続けていたことは、よく理解できる作品だと思われる。

そして最後に一つ付け加えたいのが、本作品中で個人的に、唯一リアリティが感じられる人物は白井道也の奥様だった、ということだ。

白井は自分の妻に対しても、「女は装飾を以て生れ、装飾を以て死ぬ」、さらには「自分自身すら装飾品を以て甘んずる」、つまり白井が追求する人生の本質と関わりなく上辺の見栄えで生きていると断じているが、ここで描かれた白井の妻の言動は、どこまでも現実主義で、人間が生きていく最も基本的な日常を成り立たせるもの、食べ物とお金をどう得るのかという現実を白井に突きつけ続けるものだった。

それを「装飾」であり、人間の本質とは認めない白井の価値観のほうがよっぽど「装飾」、どころか「虚飾」であるように思えるのは、私自身が女性であることに由来するのだろうか。

なんだかリアルで女性に反論できない(反論しても負ける)漱石が、作品中で仕返している感じがしてしまう。
(そう思うと、それはそれで漱石がちょっと健気で可愛く思えてくる)

さて。最後の余談の件も含めて、漱石が自身の中に在り続ける、社会に対する憤懣と、本当に向き合い格闘して、未来の社会の新しい価値観を言語化する作業は、彼にとっては、まだこれから先に待ち受ける、困難な仕事なのだった。

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