世田谷年金事務所所長特定の際の一連の流れの中での我々の行動について

こんにちは、アームズ魂と申します。

今回、ツイッター上で民族差別や特定人物への誹謗中傷を行なっていた世田谷年金事務所所長(※現在は更迭され、日本年金機構人事部に異動)の身元特定に携わった者です。

今回の件に関しましては既に各方面で話題となり、報道もされておりますのでご存知の方も多くいらっしゃると思います。

ですので事案の詳細についてはこちらでは触れません。この度私が見解を示すに至った理由は、一連の流れの中で我々が取った行動についてご批判が寄せられており、その点に関して何らかの形で説明する責任があると感じたからです。

なにぶん不慣れなものですから、読みづらい点、認識不足の点が多々あろうかとは思いますが、何卒ご容赦ください。

今回年金事務所所長の身元を公表した際に、私と共に特定をしている四谷氏からこういったメッセージが発せられました。

四谷氏がこのメッセージを発する際、共に行動し、また氏を信頼しております私も改めてこのように呼びかけました。

この呼びかけに対して寄せられたご批判は主に以下の二点に集約されるかと思います。
① 当該人物と面会する意図が分からない。
② 何故怒りの表明を抑えるように要求するのか。

この点につきまして、私の方からご説明と、また色んな方のご意見をいただいた上での現在の心境を申し述べます。

まず何よりも申し上げておきたいのは、四谷氏も私も、今回差別発言を行った人物に対する多くの方の怒りの声を封じたり、事の隠蔽を図る意図は全くないという事です。

四谷氏が件の人物と面会の機会を持った理由は、彼自身が社会保険労務士であった事も関係しています。

特定し、それを我々が公表したのが3月23日の土曜夜。そして四谷氏が元所長と面会したのが翌24日の日曜日です。月曜日になれば件の人物の勤務先である年金事務所に電話等での抗議が殺到する。また職業上の観点からも懸念を抱いた四谷氏は、できるだけ混乱を防ごうと上記の呼びかけを行い、私もそれを受けて重ねてお願いをしました。

つまり彼の職業上の責任感も面会の動機の一つと言えます。

また、何故こういう差別発言を繰り返したのかという理由を本人に問いただしたかったというのも動機として挙げられます。
そしてもう一点、抗議の声が殺到する前に事を運び、またその抗議を控えることをお願いする事で元所長を過剰に追い詰めないようにする配慮もありました。

次に、実際に四谷氏が面会した時、どんな内容の話があったのかを説明します。

面会するにあたって、四谷氏はあらかじめ元所長とダイレクトメールで連絡を取り、月曜になれば抗議が殺到するだろうから、あらかじめ所属先である日本年金機構には事の顛末を知らせておくようにと伝えました。

元所長もそれを承諾し、所属先に報告しました。ご存知のように25日月曜の午前中に日本年金機構が元所長の更迭を発表し、午前中には報道機関により周知されるというスピード対応となった背景にはこういうやり取りがあったからです。

面会の際、元所長は憔悴しきった様子で現れ、また今回の件で処分が下ることは覚悟しているという言葉があったそうです。
とはいえそういう状況に身を置くことになったのはまさに身から出た錆であり、そこに同情の余地はありません。

昨年秋まではフォロワー1500ほどだったのが、レーダー問題等で特定の国を非難するような発言をし始めた頃からそれに賛同してくれる人たちが元所長をフォローし、急速にフォロワー数が増えたそうです。

過激な発言をすれば好意的な反応が返ってくる。それに快感を覚えると感覚が麻痺し、発言内容の過激さはますますエスカレートしていきます。
差別や誹謗中傷を伴う発言は他国民のみならず著名人にも向けられ、もはやとどまるところを知らず、自分が見えなくなっていきました。

そういう中で今回自らの身元が暴かれ、事の重大さをようやく認識したという次第です。

個人的に思うのは、これまでもそうですが特定された時に我にかえり掌を返したような態度になるのを見ると辟易します。だったら最初からやるなよと思うのですが、正常な感覚が失われた状態では"痛い目"にあわなければ目が覚めないということなのでしょう。

ともあれ四谷氏と元所長との間では以上のようなやり取りが交わされました。後の推移については皆さんも報道等でよくご存知のことと思います。

次に、先程の批判についてお応えします。
まず面会の意図が分からないという点に関しましては、その点についてたしかに説明不足でありご批判はもっともであると思っております。
少なくとも事後報告という形で説明するか、あるいは水面下で動くべきだったか、何かしら対応方法を詰めるべきであったと反省しております。

また、今回の件を知った方々の抗議行動を抑え、あるいは妨害するものではないかという批判ですが、先程も申し上げましたようにそのような意図は我々にはまったくありません。

しかしながら一旦表面化し、社会的に認知された問題は、それを知ったすべての人々が共有し、関わる権利があるという前提で申し上げると、たとえお願いという形であったとしても不適切な面があったことは否めません。それに対する非難の声は真摯に受けとめようと思っております。

我々が目的としたのは、レイシストであっても人間である以上自らの行為を悔やみ、反省し、二度と間違いを犯さないと誓ったならばそこで許すという事でした。けれども一方でそれは我々が被差別当事者でないからこそそう言えてしまうのです。

元所長の発言が向けられた先には間違いなく被差別当事者が存在しています。差別行為は反社会的行為である以上、その加害者に対し人々がどのような形で怒りを表明するかは各人の自由です。

在日韓国人という生い立ちから、幼い頃から差別を受け続けてきたソフトバンクの孫正義氏はこう語っています。

"俺は小学生、中学生の時に自殺したいぐらい悩んだんだ。本気で自殺しようかと思ったぐらい悩んだ。それぐらい差別、人間に対する差別というのは、つらいものがあるのよ"

差別は相手の存在を否定する行為であり、向けられた側にとっては、場合によっては自らの命を断ちたいと思うくらい残酷なものです。同時にさまざまな人たちが暮らし形作っていく社会において、差別はその共同の空間を破壊することに繋がる恐れのある、まさに反社会的行為でもあります。

だからこそ当事者にとっても、また同じ社会に住み、それを維持する責務がある者としても差別は絶対に許してはならない行為です。

であるならばその被差別当事者の存在とそういう方々の言葉にならない絶望や悲憤に対し少しでも想像力を働かせ、寄り添い、気持ちを汲み取った形で行動すべきだったのではないか、今振り返ってみてそう感じています。

我々は差別を強く憎みつつ、同時にどこかで許すべき線があるのではないか、それを模索しながら活動してきました。その気持ちは今でも持っております。だからこそその思いが今回の行動にも表れました。

それはそれで一つの思いとしてご理解をいただければと思います。と同時に、重複してしまいますが、どういう思いで受け止め、どういう形でそれを表すのかは各人の自由であり、また仮に我々が収束を図ろうと思ったところで表面化し広く知れ渡った問題に対してはそれは土台無理な話であり、意味を成しません。

一旦社会において共有されたならばそれは個人で制御しうるものではなく、大きな流れの中で各々が自ら思うところに従い行動し、どういう結末を迎えようともその事実を厳粛に受け止める、それしかないと思います。

それに対し怯むことがあるならば最初から特定などしなければいい、そういうお言葉もいただきました。おっしゃる通りだと思います。その点で言えば、今回の我々の行動には認識の甘さがあったと言われても仕方のない面もあるでしょう。

我々は差別を強く憎み、怒り、差別する者を糾弾するために身元を暴き世に問いました。

私はそれが正義であるとまでは思っていません。差別という憎しみから発する行為に対しより大きな憎しみをもって酬いた、そう認識しています。それが"正義"や"善"と言えるのか、手段として適切なのかどうか、私の中ではいまだに結論は出ていません。表現は悪いですが「ションベンをチビらせるため」にやりました。

しかし正義かどうかという定義づけに終始するよりも、差別を憎み、その根絶のために立ち上がること、そしてそこで起こす行動にこそ最も重要な意味があると思います。我々がこれまで携わってきたニッカの営業部長、高野山金剛峯寺の僧侶、少年院の法務教官等々の特定も、そういう思いを強く持っているからこそ行ってきましたし、またそれは今後も変わることはありません。

ただ、次に進むためにも我々の行動に対し説明と見解を述べる責任があると感じ、今回こういう形で表明させていただきました。

最後になりますが、日々反差別活動をねばり強く続けていらっしゃる方々に敬意を表するとともに、今回さまざまなご意見、ご批判を寄せてくださった皆さま、我々の活動を応援し、協力してくださっている方々、そしてこの度貴重な時間を割いてお話をしていただいた菅野完氏に対し深く感謝し、この場を借りてお礼申し上げます。

ありがとうございました。

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