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「死の一瞬前」に見える景色

2024/06/04。大きな大きな愛を与え続けてくれた大好きなひいおじいちゃんに、最初で最後のお手紙を渡してきた。生前に一度たりともお手紙を書かなかった自分を憎んだ。

棺の中で安らかに眠るひいおじいちゃんの顔は、「おおよく来たね」と宮古島に帰省するたびにいつも暖かく迎え入れてくれた優しい笑顔そのものだった。何度見ても、そこに眠っているのがひいおじいちゃんだとは到底信じられず、ひいおじいちゃんそっくりな人形が横たわっているようだった。

父方の家系はみんな若くして子供を授かっているので、ひいおじいちゃんと言っても歳はまだ87歳だった。ひいおじいちゃんとは直接の血は繋がっていないものの、私が生まれたその瞬間から実のひ孫のように愛してもらった。

私がひいおじいちゃんに最後に会ったのは、今年の2月だった。大学の時に所属していた学生団体でお世話になった先輩が宮古島に行くというので、島を案内するために帰省した。ひいおじいちゃんとひいおばあちゃんにも会ってもらいたくて、二人でお家にお邪魔してご飯を食べた。「もうお腹いっぱい」と言っても次々に食べ物を出してくるひいおばあちゃんと、それを見ながらニコニコしているひいおじいちゃん。この図がいつもの典型だった。

彼氏は出来たのかとか、東京に良い人はいないのかとか、島に帰ってきて先生になれば良いのにとか、私の人生のあれこれについて言及するひいおばあちゃんとは打って変わって、東京にも良い人はいるさ〜とか、東京の方が仕事は楽しさ〜ねとか、ありさ姉も頑張っているからねとか、時々うんざりするようなひいおばあちゃんのマシンガントークを優しく包み込んで私の気持ちを宥めてくれるのが、口数の少ないひいおじいちゃんの役目だった。

ひいおじいちゃんがいつも乗っていた原付バイクの鍵には、私が中学校3年生のときにハワイからのお土産でプレゼントしたありきたりな何の変哲もないキーホルダーがいつも付けられてあった。特に深く考えることもなく「これでいっか」と適当に何個かカゴに入れたうちの一つを何年も愛用してくれるとはあの時は思ってもいなかった。いつだったか、「これありさ姉が買ってきてくれたものだよ」と、ニコニコしながら嬉しそうにキーホルダーを見せてくれたのが、なぜかとてもよく記憶に残っている。そんな風に喜んでくれるなら、なんでもっとちゃんと良いものを買わなかったんだろうと、その時からずっと後悔しているのだった。

その後悔も伝えられないまま、後悔を払拭するために愛のこもったプレゼントをあげなおすこともしないまま、今まで与えてくれた愛を何億倍かにして返そうと誓ったのも叶えられないまま、感謝の気持ちも伝えられないまま、2月に「またね」と手を振ったその「また」も来ないまま、ひいおじいちゃんは突然天国へと旅立っていった。不慮の事故だった。

ひいおじいちゃんは、家の近くの草むらで倒れているところを発見された。発見された時にはすでに息を引き取っていた。草むらには2畳ほどぶんの掃除をした痕跡が残されていたそうだ。他殺の可能性はないと判断されたため解剖に回されておらず本当の死因は今も分からずじまいだが、発見された時に大きな石の上に頭部が乗っかっていたようで、何かの拍子に足を滑らせて転倒した先に石があり、そこに頭部を強打したのだろうと推測されている。今までそんな場所を掃除することなんてなかったのに、その日はなぜか思い立ったようにそこで作業をしていたそうだ。

実はひいおじいちゃんはこれまでに3回も余命宣告を受けていた。一番記憶に新しいのは、私が高校生の時である。リンパに悪性腫瘍が見つかり、ひいおじいちゃんが宮古島から那覇の病院に運ばれた。私は中学を卒業してから宮古島を出て那覇の高校に通っていたので、ひいおじいちゃんが運ばれてきてからは毎日、バスで病院に通っていた。最初は話すことができていたひいおじいちゃんは次第に声を発するたびに苦しそうな表情を浮かべ、数日後には話さなくなった。手を握ると握り返してくれていたけど、それもなくなった。しばらく経って腕に黒い斑点のようなものが現れた。そしてついに、医者からはあと3日と言われた。

全国に散らばっている親戚たちが、この時に集まってきた。みんなこれが最後の別れだと思っていた。ひいおじいちゃんの人望は想像を超えるほど厚く、まいにち病室がぱんぱんになるくらいたくさんの人がお見舞いに来た。

もうなす術なしという状態になってしまったので、お医者様の賢明な判断で検査結果を待たずに治療を開始してくださった。すると豪運なことに、その治療がひいおじいちゃんの病気と合っていたようで、そこからの展開はドラマでもあり得ないような回復ぶりだった。「3日」経ってもひいおじいちゃんは当たり前のように生きていた。それから数ヶ月後、“何事もなかったかのように“ひいおじいちゃんは退院した。

そんなことがあったから、ひいおじいちゃんが旅立つ時はきっとあの時みたいにみんなでベッドをとり囲んで、手を握りながら看取ることができるんじゃないかと思い込んでいた。体の弱いひいおじいちゃんだったから、突然いなくなるんじゃなくて、心の準備期間みたいなものがどこかで発生するだろうと安心し切っていた。だからこそ、3度の余命宣告を乗り越えたひいおじいちゃんの最後はこんなにも呆気ないものなのかと、やりきれない気持ちになった。

ひいおじいちゃんが「死の一瞬前」に見たのは、なんだっただろう。もし転倒した後しばらくは息をしていたのなら、空虚な青空を見つめる以外に無かったのかな。いや、曇っていたのかな。雨は降っていなかったと思う。きっと寂しかっただろうな。それとも、寂しさが込み上げてくるよりも前に意識を失ったのかな。

そんなことばかり考えて、ひいおじいちゃんの「死の一瞬前」に囚われている自分がいる。どう考えても彼の「死の一瞬前」はたくさんの人に囲まれているべきだったし、誰もいない空虚な空ではなく最愛の人の顔を見つめているべきだったし、それに値するほど優しくて、逞しくて、愛に溢れていて、かっこよくて、人に貸したお金が返ってこなくても「いいよ」と笑っているような柔らかい人だった。

でも実際はそうはいかず、彼がこの呆気ない「死の一瞬前」に遭遇してしまったことがひいおじいちゃんの生涯の全てが報われない結果になってしまったような気がして、ただただそれが悔しくて虚しくて、とても寂しい。

2月に帰省した時、飛行機の予約が直前になってしまって予想外の出費だったのと、実は当時母も闘病中だったため(今はすっかり元気)、宮古島に行くのを躊躇っていた。母の看病で疲れが出ていたのか「気晴らしに行っておいでよ」と両親が気遣ってくれて、先輩との宮古旅行が叶ったのだった。

あの時もしお金を理由に宮古行きを見送ってひいおじいちゃん家にも行けてなかったら、今頃もっと後悔していたんじゃないかと思う。私のひいおじいちゃんとの最後の記憶は、一緒にご飯を食べて、たくさん笑って、たくさんお話しして、大好きな先輩を紹介できたあの日だったから、他のみんなよりは幾分か後悔の念が少ない方なんじゃないかと思う。

ひいおじいちゃんの死が私に教えてくれたことは、誰かに会いに行こうとして何かの理由でそれを躊躇っているなら、その理由が何であれ会いに行くべきだということ。毎日を生きていると忘れがちだけど、皆等しく明日が来ることを保証されている人なんていない。

2月に言い残した「またね」は、私にとって次の約束だった。でも蓋を開けてみるとその実態は、「また会えますように」っていう願い事みたいなニュアンスの方が強かった。どんなに約束のつもりで「またね」って言っても、私だってその人だって、もしかすると明日にはもういなくなってるかもしれない。

だから別れの一瞬一瞬を大事にしたいし、再会の一瞬一瞬を大事にしたいし、何気ない日常の一瞬一瞬を大事にしたい。ひいおじいちゃんが自分の死を以て、生きていく上で大切なことを教えてくれたのだと思って、私は今日も生きようと思う。

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