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(書評)ダンテス・ダイジと空爆されるアリさん


だいじょうぶだよ 君は必ず死ぬ

だいじょうぶだよ 君は必ず死ぬ
死んだら あたたかい夜のぬくもりの中で
君と僕は 君と僕とのいのちをあたためあう
夜闇の森のフクロウも 僕達のいのちだ
フクロウの鳴き声が 静かに
僕たちの瞳をしめらすことだろう

だいじょうぶだよ 君は必ず死ぬ
死ぬべき君には もうどのような恐れも無用だ
そして僕達は 時間を忘れた夜明けの
すがすがしい大気を吸い込む
まるで初めて 大気を吸い込んだように
僕達は 夜明けの息吹を感じることだろう

だいじょうぶだよ やがて死ぬときが来る
僕達の宇宙ゲームを終わらせて
夢のない夢の眠りに やすらかに帰る時がくる
初めがないここには 生も死も
初めから夢にすぎなかった

だいじょうぶだよ 君は必ず死ぬ
さぁ今 君は君自身に帰る
帰っておいで 君自身である
僕自身の胸の中に

人々はどういうわけか 死をいみ嫌っていた
だが だいじょうぶだよ
君もやがては死ぬ
死が君にすべての生命達とのふれ合いを教えてくれる
だいじょうぶだ 君は死なないのだから
生と死の中をつらぬき
やさしさが いつも響いていた
(ダンテス・ダイジ「絶対無の戯れ」より)


アリさんは戦闘機で空爆されるようになった。
それはあまりに誇張した表現だが、ほんとうに空爆されているかのような実に不快で、どんよりとした厭な気分になるのだ。前世でアリさんは、狩りを行うがごとく、無差別に戦闘機で罪も無い人々をミサイルで爆撃でもしたカルマ(業)※でもあるのかと思ってしまうほどだ。

以前から、脳髄に鈍く響くような「ゴォーォォォオー」という不穏で不快な航空機の音に悩まされていた。日によっては、静かな時間のほうが少ないのではないかと思うほど、航空機の音が延々と鳴り響いていたのである。もちろん、空港は自宅のすぐ近くなんかではなく、だいぶん地理的には離れた場所にある。
その不快な音を立てて飛んでくる航空機が、自分(この読み物ではアリさん)をターゲットとして、頭上を目がけて飛んで来ていると、はっきりと確信を持って分かったのは、 当時、稚拙なブログを書いていて、「ダンテス・ダイジ」が生前、執筆した「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」の記事をブログに載せたときのことだ。
記事を書いて投稿ボタンの「送信」を押した直後、押したタイミングに合わせて「ゴォーォォォオー」と航空機が頭上を飛んで行く音がするのである。ほぼ爆音と言ってもいい。それは何回、投稿しても同じだった。投稿するタイミングに合わせて、航空機が飛んで来るのである。晩遅くであったが、窓を開けて空を見上げて見ると、気味が悪いほどの低空飛行で燦々と光る航空機が自宅上空をゆっくりと遠ざかって行くのが見えた。
アリさんが何か大規模なシステムの中で、何か、得体の知れない重篤な監視の対象の人物となってしまっているということを、皮肉にもはっきりと分からせてくれたのは、このダンテス・ダイジだということになる。
だからこそ、こうしてまた、記事として書かざるを得ないのだ。ある意味、アリさんが書かなくて誰が書くのだ 、という使命感にも似たものからだ。

それから何日後か、十数日後かは覚えていないが、真昼のよく晴れた青々とした空が広がる日に、CoCo○○屋でカレーを食べ終え、店の扉を開けて外に出ようとした直後、今まで見たこともないような大きなプロペラが左右に付いている航空機がまるでCoCo○○屋の敷地内の駐車場に降りて到着するかのごとく、頭上に大接近して来たのには、あまりにも呆然とする出来事であった。航空機は軍用機のオスプレイだったと思われる。
おそらく、大規模なシステムの「闇の管理人」が、アリさんが航空機が気になって気になって仕方なくなるよう「条件付け」をしたのだろう。
その意図どおり、アリさんは毎日のように「戦闘機で空爆される」ようになった。


ダンテス・ダイジは37歳という若さで遷化(お亡くなり)され、生前に公式に出版された書物は「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」この1冊だけのようである。(他に出版されている書物は、お弟子さんが遺志を継いで出版された物だそうです。)
アリさんは、この著書は手元にあって、何度も読み返しているが、ダイジについて、アリさんが他に知り得ることといえば、ネット上で転がっている断片的な情報だけだ。
「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」は序盤から中盤まで、友人の自殺で、救いのない人間(個生命)の姿に絶望している自分が描かれている。

『彼は全身に、あらゆる非業の死を遂げた個生命達の哀しみの底知れぬ重みを漂わせて、私のすぐ右前に居た。私は彼の亡霊をはっきりと見、感じることができた。
彼は、座禅している私の身体にすがりつくようにして、一緒に死んでくれと言葉でない言葉で言った。(略)

私は「君と一緒に首を吊って死んでもいい」と答えた。(略)
私は彼とともに首を吊って、真夜中の便所の中で死んだ。』
(ダイジのあまりに純朴な共感性が伺える文章である。どこかの、如何わしい新興宗教の教祖達が、このような文章が書けるだろうか。説法するのではなく、自分も一緒に死んであげよう、と言うのだ。)

終盤では自分自身の少年期の頃からの自殺願望、自殺未遂に関することが書かれている。ほぼ一貫して、人間(個生命)に対する「絶望」と「悲しみ」における「救い」がテーマである。

最終盤では、そこで、全てを包括する「愛」が登場する。
それは理屈ではない、「すべてのすべて」を包括する「愛」なのだ。ちなみにニルヴァーナ※とは、涅槃※のことをいう。

本書を開いて、いちばん最初に読者に投げかけている言葉はこれだ。「プロセスもテクニックなぞも ないことを体現している あらゆるあなた達に捧げる」。
ダンテス・ダイジが本書を通して、「全人類」ほか万物万象に伝えたかったのは、理屈ではない「愛」を体感することを可能にする技術(テクニック)である。「愛」は何もかも、万物万象「すべてのすべて」を包括してしまうのだ。
その「愛」の前ではプロセスもテクニックなぞも「ない」に等しい。無限の広大無辺な「愛」は、プロセスもテクニックも包括してしまうからだ。

『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』より 森北出版
クンダリーニ・ヨーガは肉体が死にます。自己流では絶対にしてはいけません。ダイジは親切にもはっきりと述べられています。

ダンテス・ダイジは生前、キリスト教の十字架のモチーフが大好きで、よく、大ぶりの十字架のネックレスをしていたという。(ネット検索で拾った情報であるが)
余談だが、あのアップルの創始者のスティーブ・ジョブズやビートルズのメンバーも愛してやまなかった「ヨガナンダ」の著書も、キリスト教の聖書からの引用をかなり多く見出すことが出来る。
ヨガナンダはわざと聖書を多数、引用することによって、異教徒を原始的であると感じ、嫌う性質のある西洋のキリスト教の人達に、東洋の深遠な叡智を伝えたかったのである。神様という概念を、象の例え話で聞かせた逸話は有名だろう。

『パラマハンサ・ヨガナンダとの対話』より 星雲社

ダンテス・ダイジにしてみても、日本伝統の座禅、禅を極めつつ、チベット(仏教)やインド(ヒンドゥー教)にて伝統のヨガを極めつつ、キリスト教の十字架のモチーフを好んで身に着けていた。
神様というものは、個々ひとりひとりのアイデンティティーの違いから、「神様の見え方」が皆、違うだけで、人類の個々ひとりひとりが見えている神様は、皆、同じ神様だ。それは違う、という人が居たら、ダイジみたいな人から、「愛(神)」を理屈抜きに体感する技術を教わったほうが良いだろう。


※カルマ(業)とは
業の思想はインド発祥の宗教(とりわけヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教、シーク教)と道教において、輪廻と強く結びつく概念である。これらの多くの説では、善意と善行は良いカルマと幸福な転生をもたらし、悪意と悪行は悪いカルマと悪い再生をもたらすとされる。(wikipediaから抜粋)

※ニルヴァーナ(涅槃)とは
インド発祥の宗教においては、涅槃は解脱の別名である。すべてのインドの宗教は、涅槃は完全な静寂、自由、最高の幸福の状態であるだけでなく、誕生、生、死の繰り返しである輪廻からの解放と終了であると主張している。仏教においては、煩悩を滅尽して悟りの智慧(菩提)を完成した境地のこと。涅槃は、生死を超えた悟りの世界であり、仏教の究極的な実践目的とされる。
(wikipediaから抜粋)

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