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書く必要がある

シャワーを浴びていると、雨が降り出した。梅雨はとうに明けているが、このところ夕立が多い。磨り硝子の小窓から、紙幣のように黄ばんだ空がのぞいている。迷い込んだ小蝿が偶然にもその窓をみつけ、彼にとっては未曾有と思われるこの浴室の、おそろしい水害を逃げ出していく。街には、不安を煽るような、敬虔を呼び覚ますような、不思議な光が降り注いでいる。ややもせず外は暗転をはじめる。雨足は増す一方だ。背を滑り落ちる湯と、あやまたず垂直に地を打ちつづける雨が、渾然一体となっていく。赤と紫のカラーシャンプーを掌に泡立てると、場違いな苺の香りが空気を満たした。

どれくらい湯船に浸かっていただろう。がらがらと引き戸を開けると、立ちくらみに襲われた。貰い物の洗濯機に手をつきながら床にしゃがみ込む。幼少期はこうしてよく、風呂上がりに脱衣所でうずくまっていた。バスタオルを羽織りちぢこまると、体表の熱のみが徐々に奪われていく。かかえた膝のなかに宿る闇は、常に温かく潤んでいて、それを飽くまで眺めるのが好きだった。目を瞑ると、脈を一つ打つたびに、体の線がぼやけていくのが分かる。そうして体温が通常に戻るまでを過ごし立ち上がると、いつしか肺に深い安心が充足している。

冷房の効いた部屋には、こんこんと人が眠っている。赤子のような表情をして、品定め中の面接官のように手を組んでいる。眠るという行為ほど、人間全体を支配してしまうものはない。窓をつたう無数の雨粒が一つの雫に収斂していくように、安息のみを求めて人は眠る。それは限りなく祈りに似ている。祈りはそして、蹴伸びに似ている。屋上のプールで生徒らが、体全体で合唱を形づくり、一斉に青い壁を蹴る。人の形を失った肉塊は、乱反射する水面下をただ滑っていく。教員は唇に軽く笛を押し当て、天国のような光景にしばし恍惚とする。

時刻は二十時を回った。商店街はおおむね店仕舞いされ、時折、帰路をゆく人の水たまりを踏みつける音が聞こえる。ぐずつく曇に引きずられ、通行人たちは囁き声で低く話す。暗い空からしたたる雨水と、空気中のすべての摩擦とが、埃っぽい道路へ滑らかに堆積していく。

ふと、それらをかき分けて、狼煙のごとく立ちのぼる高音を聴く。音はまるでアスファルトを割って顔を出す芽のいきおいで、明確に迫りくる。それは歯医者の待合室で流れるような、あるいは職員室に置かれた電話の保留音のような、耳馴染みのあるクラシックだった。誰かが口笛を吹いているのだ。曲名が思い出せず、隣に転がっている腕を揺さぶる。呼吸で上下する胸は、それでも一定の速度を保っている。白い腹に浮かんでいる手術痕が、おだやかな膨張と収縮を繰り返す。次第に、雷の衛生画像をみつめているような気分が私を浸していく。彼は間違いなく生きている。やわらかい皮の内側に、破裂しそうなほどの命を持っている。しかし、外界の刺激に目を醒まさない今、彼と死を明白に区別するものはあるのだろうか。

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