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雑記

人と住むことのしんどさは、それ以上の小さな単位には切り分けられないと思い知った。二人分の皿を洗うこと。床に落ちている髪の毛が、自分のものと異なる色をしていること。隣の部屋から断続的に啜り泣きが聞こえること。それらをいくら集めても、"人と暮らすこと"を完璧に構成しえない。同棲というのは、一つの箱に二つの人生が入っている状態。私の人生が私だけのものではない状態。失われていくコントロール感覚。隣の部屋の啜り泣きが、コンクリートの塊となり体に巻き付いて、私を温度のない湖に沈めていくこと。

消しゴムを机上で弾き合い、残ったものが勝利というシンプルなゲームがあった。セロハンで粘着力を高められた消しゴムが、意外にもあっけなくやられたことを、私はいつまで覚えているのだろう。安定感のなさで一瞬にして戦力外通告を受けた、上原くんのイルカの消しゴム。わたしはそのイルカが大好きで、自由帳に描いて供養した。上原くんと古賀くんは、それを見つけると火がついたように嗤った。部屋の中で虫を見ると何故か、小学生の頃を思い出す。自分の名前に誰かの苗字を重ねて、打ち消す速度は当時よりも増している。

非常食用の小分けにされた乾麺にかぶりつく。安い油に吐き気がして、そんな繊細な舌でもないのに、と贅沢なアンドロイドのような自分が少しおかしくなる。この頃の私は常にコップがいっぱいだ。あと一滴注がれたら溢れてしまうから、至極単純な味のジャンクフード以外口にしない。先日出会ったインターネットの男性に、年齢を偽られていると気づいた時、酷く興奮した。自己欺瞞は嫌いだけれど、自覚的な嘘は嫌いになれない。本当のことを言う時人はただ描写しているだけだ。虚構は常に切実である。彼は昔の恋人に似ていて、昔の恋人は私について、ファザコンを引きずった恋愛をしていると評した。誰もが誰とも似ていないのに、面影とはなんと残酷な言葉だろう。でも関係のない魂を勝手にくっつけ溶け合わせてしまう操作の、その結果の果ての果てには人類愛があるのかもしれない。頭の中身を覗き合えない同士の私たちが、根っこでつながっていると再発見できたらどんなにか嬉しいだろう。

私の養分を吸い取る人は、必ずしも、こいつを利用してやろうと手ぐすね引いている訳ではない。彼らはただ、私の心の中身を想像しえないものとして、表層に浮かんだ反応のみを意思と扱っているだけだ。それはきっと大人として一つの正しい態度で、だからそれが不快をもたらす時、私を利用して何かを得ようとしていたのは私自身だ。歯磨きをしたのに食べ物のことが思い浮かぶ夜は碌なことにならない。台所に行くと、彼が辞めたはずの酒を飲んでいる。そして全身を針に刺されたような面持ちで残りのワインを流しに捨てた。紫色にてらてらと輝くシンク。都合の良さと都合の悪さはそれぞれ価値になりうるのに、疲れていると前者ばかりを自らのパッケージとして選んでしまう。

私を好きになる人は、皆大きなコンプレックスを抱えている。寄り添いたいと思っていた時期もあるけれど、今はもうよく分からない。眠るための習慣のチョコレート一粒、みたいなものが私にもあれば良かったと思います。きっと昼間のうちに全部食べ尽くしてしまうから。エスコート上手の男性に惹かれる女性は、実は資本主義にとても疲れている。この息苦しい社会から上がるか背を向けて走り続けるか、どういう形にせよ、恋愛に投影されるのは逃走劇で。いつだって見落とされているのは、社会の最小単位が二人であること。

私の特技はネット・ストーカーです。この夏は最初の恋人が書いた論文を読みながら、冷たい水をたくさん飲みました。今の時代、素人でも名前さえ手に入れば山のような情報にアクセスできるから、実名で働かなければならない会社に耐えられなかった。暇そうな取締役の面々は、今も私のTwitterをのぞいているのでしょうか。本当のことを探すために全てを否定していたら、まるで冷笑主義者になってしまった。冷笑主義さえも冷笑しながら、私は今日も元気です。キャベツの種からはキャベツしかできないように、この変化は不可逆で、軌道修正もできないのが人生で。だから誰にも、心配なんかしてほしくないのです。私は今日も、お気楽です。

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