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エスカルゴと戦争の動画

政治的な判断を日常に持ちこむと、「優しい人だね」と言われることがある。最近だと例えば、反パレスチナであるスタバのボイコットとか。

でも、それはまったく事実に反する。わたしは割と酷いことを涼しい顔で出来るタイプの人間だ。普段は過剰に空気を読んでコミュニケーションに難のない人間に擬態しているが、ひとたび余裕がなくなれば、パートナーにモラハラを働いてしまうことも多々ある。(私が一方的に殴ってるのではなく、しっかり殴り合える関係性なのでギリ保ってます。いや保ってるか?)

それも厄介なのが、パートナーとの共依存関係のなかで局所的に発生する暴力であれば、まだ改善の活路を見出しやすそうなものだが、私は子供の頃から「○○は人をコントロールしようとする癖がある」「誠実に人と向き合いなさい」と親に叱責されて育ってきた。当時はまったく理解できず、言いがかりにも程があるやろ何やねんワレいてもうたろかと力の限りガンをくれていたのだが、人と暮らすようになってようやくその意味が掴めてきたような気がする。

私は、目の前で大事な人が泣いていても、さほど心が痛まない。胸がじんじんとするような感覚も、気のせいと言おうとすれば言い切ってしまえる程度のものだ。そんな自分の共感性の欠如が不安になり、一時期は自分を試すように、ずっと戦争の動画を未漁っていた。みればみるほど不安になった。同じ世界にこんなに酷い目に遭っている人がいるのに、私の五体のどこも痛まず、私が経験している現実が一片たりとも変わらないことに。今画面のなかで、麻酔もなしに腕を切り落とされている推定6歳の女の子の苦しみを、同じ生き物である私はなぜ全く理解できないのか。

何本の戦争動画を見た頃だろう。感情や感覚を、正確な意味で分かち合うことはできない、そんな現実に打ちのめされつづけて、もはや共感性の問題は、わたし個人のものではなくなっていた。それは人間という生き物の限界だった。

この世の不条理をあらためて実感してから、わたしには少しだけ意識してやっていることがある。それはラインをずらすことだ。自分の想像できる範囲を、少しずつ押し広げていくこと。私には私以外の気持ちが分からない。紛争地帯に暮らす人が今何を思っているか知ることができない。同居するパートナーの悲しみにすら触れられない。

それでも、理解できないものに根気強く接しつづければ、いつかそれはわたしの一部みたいになるんじゃないかと思う。陣取りゲームみたいに、もしくは性感帯の開発みたいに、痛みを感じる部分を、自我を大きくしていくことが可能なんじゃないかと。それは私が一度絶望した、分かり合えない生物としての"ヒト"への紛れもない挑戦だ。

そんな訳で今日も、虫嫌いのわたしはサイゼリヤでエスカルゴを頼む。(Chu!雑な締めでごめん)

photo by @TAMA_20200726

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