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更衣室のにおい

 夜中の三時頃に目が覚めて、二人はセックスをした。一連の行為がおわると彼らは互いに背をむけて、汗拭きシートで体液の付いた手を拭った。獣のにおいと柑橘の香りが入り混じる闇のなかで、女は、仰向けに手足を投げ出して汗が引くのを待った。そうしてどれほどの時間が経ったのだろう。彼女は、場所や時間、いわゆる座標というものが自身からゆるやかに遠のいていくのを感じていた。女の意識は元居た場所、つまり、この小さな島国の、人口過密な首都の東寄りに位置する畳部屋から遠く遠くのどこか、果てと呼ぶのにふさわしい場所に放り出されていた。そうして、宇宙がその巨いなる呼吸とともに、わずかずつ肥大していくのをじっと見ている。それに合わせて、ちょうど無垢なプランクトンのように、女の体もイメージの底へ押し流されてゆく。しかし彼女は、欠けらもおそろしさを感じてはいなかった。無限に続いてゆく空間が、何を隔てることもなく、彼女のあらゆる輪郭に寄り添っていたからだ。

 そうして女が闇にゆたゆたと身を任せていると、ふと、目のすみに、ざわざわ点滅を繰り返す映像があることに気づく。それは高エネルギー体のように、熱をもち、ぶううんと震え、滲みながらゆっくり拡大され、最初は三等星ほどだったのがいまや最前列でみるスクリーンくらいの大きさになっている。そこは小額五年生の夏休みのある日、午前十時半頃、屋上プールにつながる更衣室のなかだった。夏季休暇中の水泳は自由参加制で、忙しい親をもち、遠くに連れていってもらえない、ぱっとしない子ばかり集まるのが慣らいだった。そこに通うことは女にとって屈辱的な烙印以外の何者でもなかった。しかし、背の順で万年一位のまぎれもなくみそっかすだった彼女は、せめてもの反抗心の証として、毎回二十分程度遅刻していった。

 誰も残っていない更衣室は窓が開け放たれ、菜の花色がさらに黄ばんだカーテンがさらさらと揺れていた。それを二、三分眺めてからもたもたと服を脱ぎ、窮屈な水着に足を通すのが彼女の通例だった。しかしその日は部屋の奥に一つの人影をみとめた。所在なさげに立っているのは、保健室通いのクラスメートで、教室ではめったにみかけない大人しい女子だった。女は、ほとんど会話をしたことが無いにもかかわらず、成り行きで一度、その子の家に訪問したことがあった。それは、遊びにいくというより、ついていくという表現が正しいような時間だった。

 女は或るとき、二メートルほど前を歩いていたその子のランドセルに、ほわほわとしたキャラクターのストラップが揺れるのを見るともなく見つつ下校していた。すると、その子は唐突に立ち止まり、「うちに、猫いる」ときっぱりつぶやいた。女は意表を突かれながらほとんど反射的に「みたい」と言った。そうしてその子が「じゃあ、くる?」と、そんな経緯であった。二人は、有無を言わさぬ空気の流れにあやつられていた。運命があるとしたならば、こういうものなのかもしれないと、女は感じた。その子の家は学校から十五分程度歩いたマンションの一室にあった。灰色の不織布カーペットが一面に敷かれ、窓からの光は、部屋一杯に干された洗濯物に遮られていた。猫は、部屋の五分の一はありそうな大きなケージに入っていた。二匹。思い思いの方向を向いてしっぽを持ちあげ、呼びかけるように鳴いていた。

 そんなことがあり、女はなにとなく気まずい心地がして、その子に「きがえないの?」と声をかけた。その子は曖昧に、頷くような、首をかしげるようなうごきをした。女は、その子の隣に荷物を置くと、瞬間、何かのにおいがすることに気づく。好物だった瓶詰めのめんまを、さらに熟成させたようなにおい。「これなに?」と言おうとして、その子がここまできて着替えを渋っている理由と、この不思議なにおいにはきっとつながりがあるのだと女は直観し、急ブレーキをかけた。しかし女は、得体のしれない何かをかかえて立ち尽くす同級生にどう対処して良いか分からず、そそくさと水着の肩紐にゴーグルをはさむ。そして、先いくねと、屋上につづく短い暗い階段を上っていった。

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