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こころ

思考の流れは漫画や本の心情描写みたいに綺麗なものじゃない、と誰かが言っていたけれど、おおむね一般的にこうだというパターンはあるのだろうか。私の脳内は常に会話の形を取っている。過去の会話を無意識に反芻する時もあれば、特定の人を思い浮かべて、会話のシミュレーションをしていることもある。割合としては後者の方が多いかもしれない。

頭のなかの声は、健康であればあるほど遠ざかっていく。逆に、生理前だったり、低気圧だったり、薬を切らしていたり、なんらかの不調があると、すぐに飽和する。ぽつぽつと降り始めた雨が次第に強まり、水たまりの波紋が複雑に重なり合っていくように、脈絡のない言葉が次々と浮かんでは右往左往する。

その状態を対症療法的に解決してくれるのが、音楽やラジオだ。無関係の人間の声を流し込めば、脳内の亡霊たちは一時的に傍へ押しやられる。けれど、小康状態は長くはつづかない。数時間も経てば、亡霊たちは勢いを取り戻し、前景化する。音楽もラジオも、鄙びた商店街のスピーカーから流れる調子外れのBGM程度の存在になってしまう。

言葉が氾濫してどうしようもなくなると、いよいよそれを吐き出す段階に移る。ネットの有象無象の皆さんとチャットする。自分の持てるアカウント全てを駆使して、5〜10分間隔でツイートをする。無差別に刃物を振り回すような内容が多いのは、思考が絡み合ってもはや敵味方の区別がつかない状態になっているからだ。手負いの自分を守るため、ハリセンボンのように全方位全世界へと刃を向ける。無敵の人 on the World-Wide Webというわけだ。

それらの一連の流れを経て、やっと僅かに平静を取り戻す。ここから、洪水でめちゃくちゃになった町を復興する作業が始まる。瓦礫をミキサー車にくべるように、あるいは生クリームを星型の金具から絞り出すように、乱立した感情や思いに道をつけていく。散歩をしながらiPhoneのメモに見えているもの聞こえているものの全てを書き留めたり、こうして適当な文を書いたりする。

他者に読んでもらうための記述は、形としては誰かを相手に物語ることと等しいが、その速度が違う。思考の速度が、言語化のために物理的に必要な時間(字を紙に書いたり、タイピングしたり)を待たなければならない。だから、心が凪いでいく。反対に脳内会話は、前傾姿勢で走るのと似ている。足を前に前に出さなければ転んでしまう。疲労でもつれた足を、それでも恐怖がぐるぐると回す。赤信号も何もない、見渡す限り続くトラックが、気づけば雨に沈んだ夜の町になっている。

不思議なことだけれど、これほどまでに他者に何かを伝えること、感情を言葉に翻訳することへ時間を費やしているのに、実際私は人と話すのが不得意だ。相手の発する問いや考えに対する、正解の反応というものがどこかにあるような気がしてしまう。だからモンティ・ホール問題のように、どれか一つのヤギが隠れているドアを、どうすれば引けるのだろうかと不毛な考えを巡らせつづける。

好きな人間に嫌われること。自分の愛する自分を嫌われること。自分の発言が誤解されること。嫌いな人に好かれること。それら全てを、煮詰めて言えば、自分と他者の違い全てを恐れている。そんな根源的恐怖、小五くらいで卒業できるものだと思っていた。二十四にもなって未だに、脇に変な力を入れていないと声が裏返る。私の心とは別の場所に、独自の心を持っている他人という存在に緊張している。

そもそも心自体、知覚できないままそこにあるという性質からしてとても不気味だ。たった一つの心がこれほどまでに私の人生を支配しているのに、それが並行してたくさん存在しているという事実に理解が追いつかない。体が垢を排出するように、無意味な言葉を吐きつづけているこれは何なのか。

マグロみたいに一生涯空っぽになれない頭を、脳の生理的機能として説明してしまえればどんなに楽だろうと思う。心の存在は、そしてその中身をやりとりする行為は、私にとって中世の神と同じくらい突飛だ。けれど、単純労働が日ごと機械に奪われてゆき、コミュニケーションこそが人間の仕事とされる社会において、その重要度が増しているのを肌で感じる。理解不能なものを前提に動いていく日常に、不安はつのり、やがて苛立ちに変わる。焦燥感はまた、文字の羅列で私を生き埋めにする。

そうして息も絶え絶えな私の眼前には、いつも加害欲求が顔を出す。まるで居酒屋の常連のように、あるいは帰路のラーメン屋の明かりのごとく、空々しい顔でひょっと現れる。それは私に訪れる、もっとも低俗な誘惑の一つだ。つまりこの目で他者の心から流れる血を確かめれば、その存在を信じられるかもしれないという。


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