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自分はなんで絵を描くのか?
と、頭の中で問われた。そもそも「絵を描いている」という自覚がない。「作っている」と表現した方がたぶん少し正確。表向きは作家活動、頑張ってる、応援してくれてありがとうございます、作品見てください、みたいな雰囲気を出してはいる。だけど本当は、ただ子どもの頃からものを作ってたし、それを大人になっても飽きずに続けているだけ。子どもの頃にお菓子とかの箱を切り貼りしてロボットを作った。祖母の連れてきたおじさんがそれを見て、陰ですごく褒めてくれたらしい。まだ小学校に入ったかどうかの時期。素直に嬉しかったけど、でもそんなに喜んでもいなかった。ものを作るのは遊び。一番楽しい遊び。ものを作っていると、世界全てがものを作るための素材になる。そしたら何を見ても楽しくなる。好循環。なんで絵を描くのか?楽しいから。ただそれだけ。じゃあ、なんで展示するのか?展示も楽しいから。空間に作品を配置するのもクリエイティブな頭を使う。

関心があるからやってるだけ。もし、脳にバグが起きて楽しくなくなったらやめるだろう。じゃあ、もし違う人生を歩めたら?例えば超イケメンになってモテモテになったら?それでも絵は描くだろう。絵を描くのも楽しいし、女の子と遊ぶのも楽しいし、ハッピー2倍だね!ヒモになって月100万円貢いでもらう。でっかいアトリエをプレゼントしてもらう。僕が嬉しければ女の子も嬉しい。ていうか作品全員に買わせる。

またくだらないこと書いてしまった...

ここ最近は、ミニマルな表現にハマっている。基本的に絵ってのは、密度を上げる=情報量を高める=制作にかける時間を増やすをすれば、見応えや圧のようなものが発生する(ざっくりし過ぎか)。(熱量がある、、)(なんかすごい、、)みたいな。僕も昔はよくやっていた。

そういうのはもう飽き飽きしてる。一回やったことを何回もやっても仕方ない。いや、繰り返すことで得られるものもあるけれど。
時間さえかければ誰にでもできる。それよりできるだけ少ない手数で絵として成立させる方が、より高い練度を求められる。まぁ、そんなに難しくもないけど。

別にミニマルな作品だから=良いとかってわけではない。ただ自分がやりたいだけ。飽きたらまた別の表現や手法を試す。

話は変わるけど、この前、アンノウンアジアのポートフォリオレビューに参加した。先着7名と観覧車の方々。ヒロアカ見てたら少し遅刻した。緊張したのでお酒を飲んだら顔が真っ赤になってしまい、失礼かなと思ってマスクで隠してた。石川さんは鋭くて、過去の僕のちょっとした言動から、僕がどういう人間か言い当てられた。すごい(2022年のLabでの個展IN THE AIR」を見に来てくれててそのとき初めてお会いした)。そして、僕の関心の領域から逆算して、ひとつのアイデアとしてこういう展示の仕方をしたらどうかと提案してくれた(具体的に書かないよ)。これめっちゃいいな!と思った。それにしても酒を飲み過ぎた。ギャラリーUROのオーナーさんも来てた。その場にいたみんなにお酒ご馳走してくれた。おかげでそのときの会話のほとんど記憶がない(自分は缶ビール一本で酔うくらい弱いです)。

ところでみなさん、防災グッズは用意していますか?災害に備えたりしてますか?
僕はしてません。した方がいいよって方々から言われてるけど、つい先延ばしにしてしまってます。差し迫って明日大きな地震がくるから水買っときなさいとか言われれば動けるんだけど。でも買い物リストは作った。あとは注文したりするだけ。

またタトゥーを増やした。針を刺すのは全然痛くないし耐えられるけど、傷の治癒過程がしんどい。鈍い痛みが続く。もう嫌だ。面倒くさい。リカバリーガールがいればいいのに。右の前腕はほぼ埋まった。利き手と逆の手で彫ってるから下手くそだけど。でも、これは儀式であり痛みを伴う通過儀礼なんだ。うまいへたいとかそういう話じゃなくて、自分の手で自らの身体を変容させ、少しだけ違う自分に生まれ変わる。だって自分がずっと同じ自分だなんて飽き飽きしませんか?ピアス一個開けただけでも、しばらくは少し自分が変わったような気がすると思う。でも痛い...

なんか急に文章書いてるのが馬鹿馬鹿しくなったから辞めます...

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