雀鬼流の可能性の中心

 
Mリーグ2023-4シーズンの開幕戦でBeast Japanextの鈴木大介選手が好配牌の一打目に字牌を切らず、ピンズの横伸びを嫌う8pを打ったことで、ネット上ではこの打牌への批判、さらには鈴木選手がかつて傾倒した雀鬼流麻雀への批判があふれかえりました。Xへの匿名の投稿だけでなく名のあるライターの方々までがこの件でいろいろと語っているのですが、その多くは雀鬼流を表面的にしか捉えていないなという印象が強く、桜井会長が本当に言わんとしていたことがこのままだと埋もれていくのではないかと思い、この文章を書くことにしました。私は2000年代に雀鬼会が最も活発だったとき、福岡の同好会のメンバーとして雀鬼流を学んでいました。当時は頻繁ではありませんでしたが会長や町田本部の方々などとも交流を持ち、普段は福岡の仲間と研鑽し合っていました。
 
初めに言っておかなければなりませんが、雀鬼会は狂信的なグループだったという噂について、それを完全に否定するつもりはありません。雀鬼会道場でのいろいろな問題は福岡にいながらも耳にしましたし、実際に会長を頂点とする体育会的な組織構成が健全だったとは思っていません。しかしながら、それでもなお雀鬼流の麻雀には重要な価値があるというのが私の思いです。以下ではまず鈴木選手の8p打ちの考察から始め、その後、雀鬼流の麻雀観について私の解釈を述べていきます。
 
世間では「鈴木選手は本当は字牌を捨てたいのに制約だから切れなかった」とされているようです。しかしそうではないはずです。配牌で2・3m、4・5・6s、2・2・5・6・7・8p、そして西・発とあるところに第一ツモで5sを引く。桜井会長は麻雀について様々な格言を生み出してきましたが、その一つに「麻雀は第一打」というものがあります。配牌で手牌が伸びる構想を捉え、一打目で決断する。麻雀において決断するとは複数の道筋から一つ二つと捨てていくことで、これを「見切り」と言います。鈴木選手の配牌では字牌を捨てて道筋を残す(=見切らない)手順が一般的でしょうが、雀鬼流ではそこを敢えて見切っていきます。ここにはいくつもの意味があります。鈴木選手はまず「第一打に切れる数牌の孤立牌・不要牌がないな」ということに気づきます。これは初手から難しい選択を迫られる状態であり、雀鬼流の私たちからすると違和感として感じられ、自分の状態に陰りがある徴候となります。それを感じた上でどこかを見切るのですが、その見切りにおいて重要なのが情報と感覚=勘です。まず情報というのはその局で目に見えている情報(例えば他家が初手に何を切ったか)だけではありません。前局、前々局、あるいはその半荘全体で上がりに絡んだような強い色(場の支配色)・強い牌(アヤ牌)は何なのか、場はトイツ場が強いのかシュンツ場が強いのかといったことも情報と捉えます。おそらく鈴木選手は第一ツモが索子、しかも456に5ツモの流れから自分にとって索子の強さを感じ、ピンズの伸びを見切ったのでしょう。私はそこまでの流れを見ていませんので確かなことは言えませんが、345の三色を構想してピンズではなくまず2mを切り、後にマンズをすべて見切る手もあったかと思います。いずれにしても決断し、一つの道筋を見切って進んでいくと、後にその選択が正しかったのか間違っていたのかの結果が生じます。そこで、今の自分の感覚=勘の状態(冴えているのか、鈍っていて修正が必要なのか)を把握することができます。
 
と、ここまで書いてきてすでに「流れ」とか「感覚」という言葉が出てきており、いわゆるデジタル派の方にはついていけない内容になっているかもしれません。しかしながらここで大切なのは、よく牌効率や期待値といった議論が依拠している確率・統計というのは数学の一領域であって、必ずしもそれが世界を完全に解明するものではないということです。そして、雀鬼流的な概念である「流れ」や「感覚=勘」といった現象もまた十分科学的に論じうるということです。
 
<複雑系としての麻雀>
チェスと将棋、あるいは、人生ゲームと人生はどちらが複雑でしょうか。答えはやはりそれぞれの後者になるでしょう。チェスと将棋は似たようなゲームですが、「相手の駒を取ったら自分の駒として使える」というルールによって将棋はその複雑さを飛躍的に高めています。それゆえに、スーパーコンピューターが人間の一流プレーヤーを負かすまでの時間に大きな差がつきました。それ以上に人生ゲームと本物の人生には複雑性に極めて大きな差があります。人生ゲームにはルーレット型のサイコロという偶然性が介入する余地はありますが、その道のりは非常に単純です。逆に人生はいつどこでどういう環境で生まれたのか、生きていく中で誰とどのような状況で出会ったのかなど、多種多様な偶然性が介入し、決まった未来を想定することが非常に困難です。たまたま電車に一本乗り遅れたら、運命の人に出会うこともあるでしょう。このように、自分の意図・意識がまったく介入しない出来事によって人生が左右されるわけです。
 
麻雀は世界のボードゲームの中で最も複雑性の高いゲームです。この複雑性は、3種類の数牌と7種類の字牌という牌の組み合わせ、4名のプレーヤーそれぞれの動き、そして最後までだれからも不可視であるという14枚の王牌から生じています。誰かの鳴きによってツモ牌がずれて大きく展開が変わること、一見良い待ちに見えてもアガリ牌が王牌に眠っていることなど、麻雀は変化や偶然性に大きく支配されていることを麻雀打ちならば誰しも経験したことがあるはずです。こうして決定不能性が担保された中でいわば複雑系としてゲームが進行していくのです。
 
桜井会長が麻雀を自然に例えるのもそれが自然と同じ複雑系だからです。大げさでなく、麻雀牌が織りなす現象は小さな自然界として捉えうるわけです。この認識は雀鬼流の麻雀観の本質を成します。上述のように雀鬼流の最も有名な制約は第一打に字牌を切らないというもので、これは牌効率的に「損である」としてよく批判されています。しかしながら、根本的な部分でその損や得とは人間の合理的思考の産物だということに気づく必要があります。雀鬼流は麻雀を自然のように偶然や因果が織りなす複雑な現象として捉えますが、一方、いわゆるプロを含めた世間の人々は麻雀を損得をめぐる人間の駆け引きのゲーム(頭脳ゲーム)と捉えています。ですから、一般の麻雀では牌を媒介として人間の欲望が表出し、駆け引き、騙し合いによって点棒を蓄積/損失するという営みが演じられます。ですがこれは、自然というより大きく複雑なシステムのなかの一要素にしか過ぎない人間が、自然を支配し、それを資源として経済活動を行ってきた近代合理主義の営みと同じような現象なのです。近代合理主義の帰結は自然破壊と格差社会です。人間の利己的で利益中心主義の経済活動は自然に負担をかけることを厭わず、富の蓄積は独占・寡占状態を生み出し、分配が滞って著しい格差が生じたわけです。
 
雀鬼流の麻雀はこれとは対極にあります。桜井会長はよく麻雀から経済を取り除くということを述べていましたが、これは要するに、損得の欲望渦巻く人間中心主義を捨て、麻雀というゲームの本質である複雑性=自然に回帰するということです。麻雀が自然と同じく複雑系の現象であるならば、プレーヤーは人為的に卓上で生じる現象を支配しようとするのではなく、牌が織りなす自然と調和する打牌、つまり自然に寄り添った打牌を心がけるべきだというのです。自然には晴れた日もあれば雨の日もあるように、麻雀には和了るべき時もあれば振り込むべき時もある。繰り返しますが桜井会長が自然の比喩を多々使うのは、麻雀に人間がコントロールできない不確実性や非決定性、偶然性がまさに自然のように存在しているからです。ですから、雀鬼流のプレーヤーが目指すのは、雲の動きや風の強さを感じながら数時間後の天気を予測するように、卓上で起きようとしている現象の傾向を示す諸徴候に気づき、その流れに沿った打牌によって牌の織りなす自然と一体化することなのです。近代合理主義の残酷な帰結を経験した人間が、いまや格差のない社会、自然と調和した生活を目指しているように。
 
このことがわかると、なぜ雀鬼流が字牌やドラを大切にするかがわかります。桜井会長は「風牌は自然をあらわす」とし、麻雀ほど方向が意味を持つボードゲームはないと言います。例えばポーカーにおいてトランプのカードは誰にとっても同じ価値ですが、麻雀の風牌はプレーヤーの誰かにとって特別な意味を持ちます。そしてその意味は、東南西北という方角によって決まります。ある人にとっては無意味な牌が、別の人には有意味な牌となり、鳴きを生む。こうして混沌とした卓上の自然界に方向性を持った動き(=風)が生じます。桜井会長は麻雀にトイツ場ができるのは字牌があるからだとも言いますが、字牌は積極的に鳴きを生み、卓上に風を起こすのです。複雑系を説明する概念にバタフライエフェクトという言葉があるように、一つの鳴きはその後の卓上の現象に大きな影響を与えます。だからこそ、字牌の扱いは数牌以上に意味があるわけです。もちろん字牌は「攻め」にも「受け」にも有効な牌ですが、決して「鳴かれたら損」とか「安全牌を取っておく」といったレベルで捨てないのではありません。

またドラに関してですが、これも複雑系の概念から考えることができます。配牌を取る前、4つの山が積まれた段階では、風牌を除いてすべての牌は4人のプレーヤーにとって等価です。例えば鍋でお湯を沸かすとある時点から渦が生じますが、それはどこからか決まっていません。しかし何らかのきっかけである地点からごく小さな渦が発生し、それが結果として大きな渦となります。ドラというのは、まさにこのきっかけの地点です。108枚の数牌と28枚の字牌という混沌とした要素はドラというきっかけを与えられ、それを手掛かりとして牌が動き始めるわけです。つまりドラは複雑な諸要素を結ぶ一つの結節点であり、それを焦点として卓上の絵が描かれるのです。ですから雀鬼流ではドラそのものだけでなくドラの色を重要視します。4人のプレーヤーがドラ色を大切にしながら打ち、勝負がドラ色で決する状態がもっとも場に合っている、とされます。このように牌が織りなす自然に意味を与えるからこそドラは重要なのであって、決して損得の問題ではないのです。
 
ところで雀鬼流の打牌スピードについてもよく批判されています。世間では「雀鬼流は高速で打つから考えてない。雀鬼流麻雀は頭脳ゲームではない」とされているようです。たしかに雀鬼流では牌を切った瞬間に次に切るべき不要牌を右に寄せ、次の牌をツモってすぐに切ります。その時間は1秒かもしれませんし、2秒かもしれません。大事なことは動作をできるだけスムーズにし、良いリズムで迷いなく切ることです。そして牌を切ったらそれ以前の思考に執着せず、淡々と同じ動作を繰り返します。こうして半荘を早ければ15分から平均的には20分ほどで打ち切ります。これは打牌が早いだけでなく、世間の麻雀にくらべ振り込みも多いので局が早く進むこと、そしてこれは信じてもらえないかもしれませんが、そのように全員が打つと手牌の進行も不思議と早くなることがあげられます(雀鬼流では全員のリズムが良くなると4巡目5巡目のリーチが普通になります)。
 
それでは雀鬼流のプレーヤーは考えていないのでしょうか?その答えは「考えているし、考えない」です。まず、当然ですが雀鬼流の打ち手も牌効率の理解は十分あります。私たちはあのスピードでも他家の捨て牌をチェックしていますし、基本的な牌効率は打牌選択の一つの条件になっています。そういう意味では考えており、さらにいうと、先ほど「諸徴候に気づく」と書きましたが、トイツ場なのかシュンツ場なのか、荒れ場なのか小場なのか、どの色が強い/弱いのか、場の動きに絡んでいる特定の牌(アヤ牌)はないか、誰に運がある/ないのか、といったことも考えています。しかし最も重要なことは、「考える」という営みの内実です。ふつう合理的な思考、麻雀であれば確率論を使った思考(期待値の算出)のことを世間では「考える」と呼んでいますが、近年の脳科学の知見によれば、「考える」という行為はそれほど単純なものではありません。脳科学者のアントニオ・ダマシオが「ソマティック・マーカー」という概念で論じていますが、私たち人間の思考とは、身体的・情動的レベルの無意識の傾向・判断と切っても切り離せないものなのです。
 
例えば現代のサッカーにおいて導入されているのは、選手の無意識のレベルでの判断を鍛えるトレーニングです。現代サッカーは高速化し、選手は複雑な状況のなかでごく短時間に最適解を導き出すと同時にそれを身体的パフォーマンスとして高精度で表出させなければなりません。そのような環境下では、私たちが通常いうような意識的な「考える」ではもはや間に合わないのです。ですから、高速かつ高い複雑性を伴うトレーニングを選手に課すことで、選手の脳の論理的思考部位ではなく情動部位を活性化させ、無意識や勘によってプレーが生じる状況を生み出すわけです。なぜなら論理的思考よりも情動的・無意識的処理/判断のほうが圧倒的に速いからです。速度が速く複雑性の高い競技であればあるほどこうした情動的・無意識的判断が重要となります。例えば野球というスポーツはワンプレーごとに時間が止まるため、論理的思考が重要視されるでしょう。しかしサッカーではそれでは間に合いません。
 
ここまで読まれるとお分かりでしょうが、雀鬼流の打牌スピードはいわゆる「考える」から脱却し、脳における情動・無意識・勘の領域を活性化させるためのものなのです。桜井会長がまさにブルース・リーと同じく「考えるな、感じろ」というのは、こういう意味なのです。一般の麻雀では時間を使って“論理的に”損得勘定をし、相手を陥れようとします。しかしそれによって情動系は活性化せず勘の働きも弱くなり、牌の織りなす自然の流れに調和できなくなるのです。最新のサッカー理論では、相手プレーヤーに考えさせることによってパフォーマンスの低下を引き起こす戦略が考案されています。このように思考は必ずしも最適なパフォーマンスを引き起こすとは限らないのです。
 
長々と書いてきましたが、一般の麻雀と雀鬼流の麻雀観はこのように本質的に異なります。だからこそ、会長は「みなさんのやっていることが麻雀で、俺たちのやっていることは麻雀じゃないんだ」と言いました。雀鬼会の「制約」について世間ではいろいろと言われていますが、卓上の自然を人間の欲望が上回るような行為が禁じられていると考えれば一番しっくりくるのではないでしょうか。自分の点数を上げるために裏ドラのリスクを生み出してしまう明カンの禁止、相手を陥れようとする即引っかけリーチや地獄単騎待ち、などがそうです。制約は「やってはならないこと」ではなくて、「それをしてしまうと麻雀の本質から離れてしまうよ」という目安ではないかと思います。
 
以上が私が雀鬼流から学んだことです。もちろんここには私の勝手な解釈も含まれていることでしょう。私自身は桜井会長を盲目的に信じていたわけではありません。ただ会長の書かれたものを読み、雀鬼流で打ち続けるなかでこういう結論に至ったということです。世間が雀鬼流を丸ごと葬り去る前に、少しだけ書き残しておきたかったのです。

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