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去年NOPE見てたな

※2022年の9月26日にただ個人的に書いていたテキストをそのまま掲載


「NOPE」
2022年、アメリカ、UNIVERSAL、131分、脚本監督Jordan Peele、配給東宝東和「ゲットアウト」で大きな衝撃をもたらしたジョーダンピールの監督作「NOPE」は、やや散漫だが意欲作だった。

 ロサンゼルスの山あいで撮影馬の牧場を営むヘイウッド家の長男OJとその妹エメラルドは、父オーティスの不可解な落下物による死によって、牧場を継ぐ事になる。半年後、経営が上手くいかなくなっていったOJは近くで西部開拓モチーフの遊園地を営む元テレビスター、ジュープに馬を売ることにする。そんな中、有名人になりたいエメラルドはOJが見たというUFOを撮影してお金を儲ける計画を提案する。
 大物カメラマンのホルストと家電量販店員のエンジェルの力を借りながら、二人はUFO(“Gジャン”と呼ばれる)の撮影に挑み、それに成功。また同時に“Gジャン”はエメラルドの機転によって破壊される。

 この映画が鍵としているのは「見る・見られる」の支配関係とその逆転である。UFO=Gジャンが巨大な瞳の形であり、その“瞳”を見た人間を吸い込み/殺害する設定は一方的な見る側の消費を表している。だからこそラストにかけてエメラルドらが命の危険を抱えながら逆に瞳を撮影し金儲け(消費)しようとするという逆転劇は象徴的である。しかし、最後の展開には納得いかなかった。映画の最後、エメラルドが西部開拓モチーフの遊園地にGジャンを誘い込み、巨大なマスコットバルーンを食べさせ殺してしまう。「見る・見られる」の関係を反復するこの映画の最後が、瞳の破壊で終われるはずがないと強く思った。こう思うのは「見る・見られる」の関係について挿話的にもう一つエピソードが含められていたからでもある。元テレビスターで西部開拓モチーフの遊園地、ジュピター・パークの経営者リッキー・“ジュープ”・パクのエピソードだ。
 ジュープが子役タレントとして最後に出演したテレビドラマ「ゴーディ 家に帰る」は、本物のチンパンジーが登場するホームコメディドラマだった。そのとある回の収録時ゴーディ役のチンパンジーが暴れ出し、ジュープ以外の出演者を殴り倒し顔をむしり取る。そして隠れていたジュープとチンパンジーが拳を合わせた瞬間、チンパンジーは射殺された。
 ドラマの中で笑われていたチンパンジーが白人の出演者を襲い、隠れていた韓国系のジュープを襲わなかったこのエピソードは、当然アジア人を猿と揶揄する事と重ね合わせている。ジュープのキャリアはこの事件をきっかけに終わりを告げたようだが、チンパンジーとの最後の瞬間を、絆が結ばれた記憶として反芻しているらしい。このエピソードは映画冒頭と中盤で二度描かれ、OJとエメラルドの物語とは別の扱いであるのは明確である。
 この差は映像の「見る・見られる」と消費をメタ的に捉えるものなのだと考えられた。映像的にも机の下に隠れたジュープの一人称視点で描かれ、血濡れたチンパンジーに見つかる瞬間は、映画の観客自身が見られる事で恐怖を抱くようになっている。つまり、「見る」観客と「見られる」映画の関係が逆転されている。
 ジュープの挿話とGジャンの物語は分離している。見られる存在(チンパンジー)による暴力はそれによって観客が懐く恐怖とは別にジュープの中で逆襲として肯定され、見る存在(Gジャン)の暴力はエメラルドの逆襲によって終わる。
この二つの比較から本作の構図の問題について述べるならば、「見る・見られる」の支配関係や消費の暴力性を、突発的な、血の流れる暴力と繋げた点ではないだろうか。本当の「見る・見られる」の関係は暴力よりも当然のこととして存在しているからこそ扱いにくく、苦しめるのだから。
 この映画がやや散漫に思える一端は、ジュープの挿話がGジャンの物語と関係していないからだが、上述のように「見る・見られる」の関係を血と暴力とに絡またせいでUFO(Gジャン)対OJ&エメラルドの本筋に於いても散漫さが感じられた。特にGジャンの扱いに段階を追って注目する。
・Gジャンは謎の存在として雲に隠れて登場し、当初昼間は姿を現さない。
・夜間に雲間を飛び、物を吸い込む。
・OJとエメラルドでGジャンを撮影しようと準備する。
・Gジャンは多くの人と物を吸い込み、大雨の夜間に縄張りとするヘイウッド邸の上に血と邪魔な吸い込んだ物を吐き出す。
・Gジャンが眼の合ったものを吸い込むことがOJの気付きで突然に明らかになる。
・協力者が参加し計画的にGジャンの撮影を準備する
・エメラルドによってGジャンが昼間に呼び出され、撮影が行われる。
・OJとエメラルドの声かけにGジャンは誘導される。
・エメラルドに誘導されたGジャンは大型バルーンを飲み込み、弾ける。

 整理すると、Gジャンはホラー演出のための要素として登場し、OJの気付き以降恐れる対象ではなくなる。闇に隠れる謎のUFOから、呼べば出てくるモンスターに変化しているともいえて、映画の山場=ハラハラドキドキのためにGジャンは登場していると考えられた。「NOPE」の中で見どころと言えるGジャンのシーンは「見る・見られる」という批評的な観点から離れ、OJとエメラルドの兄妹の絆を演出するスパイスになり、ただ襲ってくるから倒すという終盤の典型的な敵役を負わされる。この展開にはスペクタクル的な期待への肩すかしを覚える。
 Gジャンの連続写真を撮影した後笑顔をたたえて遊園地で倒れこんでいるエメラルドと、弾けたGジャンに集まって来た取材班の喧騒で映画は終わる。このエンディングもGジャンによって命を落とした父やジュープのことなどを思うと大変落ち着きが悪い。

 「NOPE」がやや散漫な意欲作だったのは「見る・見られる」の関係や映像への批判を多面的にUFOと繋げた目新しさと、夏休みに見る娯楽“SFホラー映画”であろうとした所との間だったからだと考えている。娯楽映画としての「NOPE」は、IMAXカメラで撮影された谷の風景や特殊な方法を採用したという夜景がIMAXの映画館では存分に発揮されただろうし、叫び声を上げるGジャンの異様もその全貌を見たいとワクワクする。また日本の一部では反応が上がったAKIRAのバイクオマージュやオタク趣味も人によっては興奮するだろう。ただその娯楽性と物語としての着地は別問題だと言うほかない。

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