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四條畷神社・桜祭り

四條畷神社の「楠公さくら祭」で演武を披露させていただきました♪
四條畷神社は南北朝時代、四條畷の合戦で足利軍との戦いに敗れた楠木正行とその一族の将士24人を祀る神社で、『なにわ七幸めぐり』の一社『心願成就』のご利益を頂ける神社として選定されています。


御祭神・楠正行(くすのみ まさつら)公は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、不利を覚悟で南朝側に立って戦った武将、楠正成公の嫡男です。

正行公は瓜生野(うりうの)(現平野区瓜破西付近)の戦の際、敗走する多数の敵兵が渡辺橋(現中央区天満橋付近)から落ちて溺れているのを見て救助を指示。寒さに震える彼らに衣服を与え、傷の手当てをし、休養させて京都に送り返しました。

蛮勇がもてはやされた時代にあって、敵味方関係なく慈悲深い博愛精神を発揮した正行公。救助された敵兵の中には四條畷の戦で楠がわにつき、共に討ち死にして御恩返しをした者もいたとか。

正行公の行為は、明治時代、西洋の赤十字精神が日本に入り、受け入れられる礎となりました。

明治以降、父は大楠公、息子は小楠公と呼ばれ、親しまれました。

拝殿の左隣には、楠木正成の妻にして、正成亡き後、正行や兄弟を立派な武将に育て上げた久子さんを祀る「御妣神社(みおやじんじゃ)」が鎮座しています。

正行や弟の正時を国の忠臣として育て上げられたことから「女性の鑑」として「子宝」や「子育て」のご利益があると言われています。

この銅像は、父:楠木正成が死を覚悟して湊川(現神戸市中央区)に出陣する際、桜井(現大阪府三島郡島本町)で11歳の子:楠木正行との別れの場面の銅像で遺言を託すシーンです。

『父の死後は足利家の天下になるだろうが、どこまでも正統の天皇を御守りせよ。それが父への孝行となる』と話し、天皇から頂いた短刀を与え、出陣しました。

これが有名な『桜井の別れ』です。

この像の場面は『桜井の別れ』から10日後の場面で『足利尊氏(あしかがたかうじ)』より送られてきた父の首を前に、悲しみのあまり後を追って自害しようとした正行公を『父の遺訓を忘れたか』と母親(久子)から懇々と諭して奮起させている様子です。


演武の後は、お抹茶をいただきました。

「飲めますか~?」
って確認されました(笑)
実は、この面、鼻の部分取れるんです♪
お茶も飲めますし、お菓子もしっかりいただけます。

こういった機会に奉納演武をする機会をいただいてありがとうございます。
見ている方々にも、主催されている皆さんにも盛り上がっていただけるように、古くから大切なものを守りつつ継承していきます。

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