「人生のボーナスタイム」を始めたはずが、本当の人生が始まっていた。
長月です。
突然、変な話をしますが、皆様、
「もし、自分の人生がいったん終わって、そのあと、死ぬ前になんでも自分の好きなことができる”ボーナスタイム”が始まるとしたら、何をしたいですか?」
これは、私の過去の話の完全版というか……ずっと秘密にしていたけれど、今日存在している私があるためには欠かせなかった、革命の話です。
思えば、「人生のボーナスタイム」を決意した瞬間、私の本当の人生が始まったようでした。
いい機会なので、今回はその「人生のボーナスタイム」について書いてみようかな、と思います。
もし、「人生」が終わるなら。
私の半生は、挫折の連続でした。
中学受験で第一志望の中高一貫校に入れたときがピークで、中学2年生のときに持病を患ってから、状況が一転。
「授業に出席する」という”当たり前”のことが困難になりました。
それまで私の学校生活のモチベーションは部活でしたが、それに打ち込むという選択肢すら無くなり、心の支えをも失いました。
何もかもに見放されたようでした。
高等学部の中退を決心した後、高卒認定を取って、親に言われるまま無理やり大学受験をしましたが、持病を悪化させて、結果は出せず。
「K中学に入れたら、何もしなくてもO大学くらいには入ってくれると思っていたのに」と母に罵られ泣かれながら過ごした大学生活も最初の2か月間が過ぎたとき、
「こんな人生なら、途中で終わらせてしまった方が、幸せなのではないだろうか」
と、思ってしまったことがありました。
しかし、そのとき、不思議な体験をしたように思います。
私の意識の中に、はっきりとした「応答」がありました。
「それなら、長月が本当にやりたかったことをやって、楽しいと思えることもしてからにしたらいいよ」
「それをしてからでも遅くはないし、急いで人生を終わらせる必要もないと思うよ」
それが、革命の始まりでした。
人生の”ボーナスタイム”が始まる。
第一の選択。理転して再受験した話。
かなり切羽詰まっていた私は、突然降ってきた「応答」、あるいは「ボーナスタイム宣言」に対しても、一理あるかも?……なんて、思いました。
それでとりあえず、自分の本心に目を向けてみることにしたのです。
すると、私はそれまで、親や、周りの人々の期待に応えることが正しいと思い込んで、自分のやりたいことを抑圧してきたということに気が付きました。
本当は理系で大学を受験したかったのに、母に「あなたは理系のセンスがないから、文系で受験した方が結果が出せるよ」と言われたことを鵜吞みにし、文系で大学を受験することを決め。
しかし、受験生のときには文系出身の母に常に口を出され、大学受験に”失敗”してからも「再受験をして。大学の勉強をしてないで、英語、日本史を勉強しなさい」と言われ続けている状況です。
それを自覚してはじめて、私は、「そんなの、納得できない!」と思いました。
すぐに、私は母に、
「わかったよ。再受験をする。でも、次は理系の学部を受けるから」
と伝え、そこから、数学・化学・物理の独学での猛勉強が始まったのです。
結論を言うと、第一志望の二次試験の前に再び持病を悪化させてしまい、合格はできなかったものの、努力を認めてくれた母が別の大学に出願することを許してくれました。
そこに合格はできたため、第二志望の大学に入学しています。
第二の選択。大学教員を目指す話。
再受験の後、大学での勉強を再スタートさせた私は、憧れだった理系の学問分野の授業を受けられることが楽しくてたまりませんでした。
勉強に熱が入っていた私。
私の学科では学年ごとの首席・次席に賞と奨学金が贈られるのですが、気がつくと1年次で受賞。2年次、3年次でも受賞!
また、2年生のとき、学科の先生方が自分の関わる分野について、とても熱心に授業をされていることに気が付きました。
素直に、「こんな風に、自分の好きなことに関わる仕事ができたら楽しいだろうな」と私は感じました。
そのとき、私は小学校に入学する以前から、研究をすることや誰かに教えることに関心があったことを思い出したのです。
幼稚園に通っていた時に、何かのタイミングで将来の夢について描いたことがあり、そのときに描いたのが「研究員」。
顕微鏡の中のミクロな世界の写真を見ることが大好きでした。
小学生のときには、春に配られたばかりの算数の教科書を先取りして読んで、友人に筆算の解き方を教えたりするということを遊びの代わりにしていたほどでした。
それで、私がやりたかった仕事は大学教員かもしれない、という発見をしたのです。
しかし、そのときには「いやいや、無理だろうな」と、考え直しました。
大学教員なんて、挫折ばかりだった自分にはとても無謀に思えたからです。
可能性なんかない、と思っていました。
しかし、2年生のとき、ひょんなことから、お世話になっていた先生の研究室に遊びに行くことになったという出来事があります。
既に就職・進学が決定している4年生の先輩方に出会って、自分の将来について真剣に考えるようになりました。
大学教員になりたいと考え始めたことを、先生にも相談をしました。
当然のことながら、先生は実際に大学教員として勤められていますから、とても具体的なアドバイスをくださって、自分の夢は、必ずしも達成不可能なものではないのかも、と思い始めました。
そして、2年生の春休みから、先生のアドバイスをもとに、大学院に進学をするための勉強や受験先の検討を始めたのです。
このときから、私は、大学教員になりたいという”夢”を、達成すべき”目標”に変えました。
もはや、人生を終わらせたいなどとは考えておらず、まるで本当の人生が始まったかのような感覚でした。
第三の選択。大学院受験に本気になる話。
研究室に遊びに行くようになって以来、今となっては私の憧れの存在である、ある先輩と知り合い、よく話すようになりました。
その方は学部の卒業後そのまま修士課程へ進学し、今では私も同じ研究室に所属しているので、かなりお世話になっています。
その先輩に、私は、大学教員を目指すために外部の大学院を受験するつもりであるという話をしました。
先輩は私の能力をとても高く買ってくださっている方で、私の目標も応援してくれました。
先輩がくれた言葉の中で、一番印象的だったものがあります。
いつか、大学院の授業に先輩と一緒に出させていただけることになったときに、授業が終わった後の会話の中で、
「君たちは可能性に溢れていていいね!」
と先生が言ってくださったのに対して、先輩が
「一番可能性あるのは、長月ですよ」
と返してくださったのです。
私は、この言葉を忘れることができません。
何があっても自分の可能性から目を背けない、という決断をする一番大きなきっかけとなった言葉でした。
いったん弱気になってしまえば、どれだけ本気でやりたいことをやろうと決意しても、過去の挫折を引きずっていて自信を無くしている自分が、いつもどこかにいるんです。
たびたび自信を無くして、歩みを止めてしまいそうになるときもありました。
でも、この言葉を思い出すたびに勇気を振り絞って、ひたすら前に進み続けました。
そうしているうちに、「やっと掴んだ本当の人生、本気で生きていこう。必ず大学院に合格するんだ。」という覚悟が定まっていきました。
本当の人生が始まる。
そのあと紆余曲折ありましたが、先日、私は晴れて、志望していた大学院に合格することができました。
大学教員になる、という目標への第一歩です。
もし、あの「ボーナスタイム宣言」に乗っからなかったら、理転して再受験する決意もしなかっただろうし、大学教員になろうなんて考えもしなかったし、なにより、こんなに本気で自分と向き合えていなかった!
自分と向き合わないままでいたら、たとえ生き続けていたとしても、私はいつか必ず後悔したと思います。
ですから今では、挫折の連続だった過去も今の私があるために必要なことだったのだなと受け入れています。
そして、ここまで、本当にたくさんの支えもありました。
誰しも、目標に向かって進み続ける中で、困難に直面し、自信を失ってしまうことはあるはずです。
そんな中で、支えてくれる人の存在は大きく、かけてくださった言葉の数々はいつでも私の記憶の中で温かく光を放ち続けています。
私は、大学教員になるという目標に向かって今も歩んでいます。
しかし、同時に、夢や目標を追いかけている誰かを応援できる人間でありたい!とも思います。
自分の本心に本気になるだけで、すべてが変わっていく可能性がある、と知ることができました。
私の経験が、誰かの可能性を拓く手助けとなれれば、幸いです。
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