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寄り道の記憶


寄り道が、好きなのかもしれない。
仕事場への行き帰り。車を道の端に停めて降りる…。野草や木々の葉裏を翻す風を真似するように、辺りを散策したくなるのだ。
ハナミズキの花びらのひらき加減が気になって、そっと覗いてみる。1日2日3日、花の咲いている日々を、木の近くに行って、あるいは遠くから見ている。
可憐な美しい姿を写真に収めながら、ハナミズキにまつわる記憶を繋げたりする。
散策というのは、草花の咲く現実の道の向こうに、さらに伸びる何本もの道の続きを、再び歩きはじめることが出来る時間なのだと思う。

…ところで、実は今でも時々思い出す風景があるのだけれど。遠い遠い記憶の、眠りの底に沈みかけては浮かび上がる、1枚の写真のような時間。
幼稚園に通っていたある日のこと。昔は車での送り迎えなどなかったので、5才位でも友達と、または1人で通っていたのだと思う。

その日の朝は、多分遅れてしまったのだ…。幼稚園の前まで行ったら、門が閉まっていた。先生は建物の中にいるようで、声をかけられる人が見当たらない。
幼い自分は、引き返して家に帰ろうとした。人通りの多いメインの道の1本向こうに、人気のない、草が道の両脇にたくさん生えているような細道があった。

幼稚園に行けないそんな日であるから、幼心にもあまり人目につきたくなくて、細道を帰って行ったのだ。
本当は、小さな工場があったりして、あまり通らないように母に言われていた道。

心細さから、少しだけ怖い気持ちを感じていた筈だが、道に生えている草に目をやりながら歩いていたら、きっと不安は飛んでしまったのだ。
車のタイヤの跡が轍となって固まり、ぬかるんだ日の記憶が道の形状に残っている道。隆起した真ん中部分には緑の葉が大きく育ち、葉をロゼット状にひらいていた。
草の種類はいろいろあったと思うけれど、この時の”オオバコ”の葉の姿が、いつまでも脳裏に焼き付いている。

時間が経過してしまったから、その日のその後の記憶は、現実と幻想が混ざってしまい、本当はどうだったかはもうはっきりしない。記憶では、お弁当を広げて食べてから帰った気もするしw、今頭で考えれば、5才の子供がそんなことはしないで帰っただろう、などと思うが。

小さな頃の鮮烈な風景。初めて自分の孤独と手を繋いで、新しい時間を歩いた日だったのかもしれない。
時々思い出すこの時のオオバコの葉っぱの姿。こんなに長い時間、自分の心の中の道に生えているとは思わなかったけれど…。
私が、つい、常々寄り道をしたくなる原点がそこにあるのだな、と思う。
Arim

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