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1994年3月26日

タイトルは父の命日だ。多分あっていると思う。今年でちょうど30年前になる。
多分というのはここ10年ほど墓参りに行ってないから忘れた。
墓参りに行ってないのはめんどくさいからと母がパーキンソンを患い、介護が必要になり、墓参りは不可能になった。
私自ら墓参りに行くことはない。10年以上前に気が向いて命日に一人で向かったことがある。
すると、お墓に人がいた。妹だった。
写真はその時の妹だ。日付を見たら2009年3月28日だった。それが命日か?
笑ってしまった。
妹はお酒を飲んでいた。
私は手を合わせた後に妹車に乗せて、実家か今の妹のマンションに送ったはずだ。
いつも父の墓前では謝っている。父の望んだ私にはなれなかったからだ。
父はいつも、いい大学を出て、いい会社に勤めて・・・云々だった。
すまんと。そういう人間にはなれなかった。
ただ、死人は生き返らないので勝手に謝っているだけだ。
この墓に私は入るのだろうけれど、継ぐものがいないので、その前に母が入って数年後には無縁仏にするつもりだ。私も無縁仏に入れてもらえればいいし、死んだ後のことは別に気にしていない。生き残ったものが苦労しないようにできるだけのことはするつもりだ。不動産は残さない。持ってないし。
将来的には公営住宅に移り、可能な限り介護保険を使いまくり、必要なら生活保護を受け、ひっそりと死ぬつもりだ。
公営住宅なら孤独死もいっぱいあることだろうし問題はなかろう。
父はいつも口々にお前はなんでこんなに成績が悪いのかと言っていた。
妹はいつもオール5なのにおかしいと。ちなみに妹は小学校から高校までずっとオール5だ。
私は中のちょっと上ぐらい。だから妹と比べると父としては不満があったのだと思う。妹が普通と思っていた節がある。
なぁ母さん、なんでアレモはこんなに勉強ができないんだ?妹は成績がいいのにと突然発した。すると母は激昂し、「アレモだって頑張っているんだから、そんなこと言わないで!」と大声を出した。
辛かった。
2つ下の妹が小学校に入学してから、いつも学校の先生には、苗字が一緒であることに気づくと、あれ、もしかして、あの妹さんのお兄さん?あら〜そうなの〜と驚かれた。それはずっと続いた。気になる。気にしていた。
6年間ずっとオール5だ。秀才だ。ちなみに彼女は小学5年生の頃に勉強のしすぎで体調を崩し、嘔吐を続け、食べられなくなり入院した。当時の担任が普通ではこなせるはずのない量の宿題を出していて、多くの生徒ができずに学校に行くと激しく叱責されていた。それを避けるために以上なほどの勉強時間を抱えていた。トイレでずっと吐いていたのを今でも思い出す。40年ほど前だ。
それ以来後遺症で時折激しい頭痛になり、今でも寝込む。
そして、小学5年生の時に父は左遷され、地方へ単身赴任になった。
以来、月に一度家に帰ってきていた。
思春期に父性の不在というのはどういう影響があったのだろうか。
酒癖が悪く、すぐに絡んできたので幼い頃から父がお酒を飲むのが嫌いだった。
お酒を飲んで帰ってくると、いつも夫婦喧嘩をしていた。時々殴っていたようで殴る音が寝室まで聞こえ、母が痛い!と泣いていたのを覚えている。4~5歳の頃からずっとだった。恐ろしくて恐ろしくて、親が離婚したら俺は生きていけないと思って怯えて生きていた。
以来、彼女ができても喧嘩はできない。本音は言わない。怖いのだ。
父は朝5時には家を出て、帰宅は0時過ぎ。ほとんど飲んで帰ってきてた。
土日の休みもずっと飲んでいた。シラフの時があったのだろうか。
地方に転勤して、車の免許を持っていなかったが、仕方なく45歳で免許を取った。案の定人身事故を起こした。しかし、自転車を弾いたのだが、女学生に大きな怪我はなく人身事故扱いにならなかった。それならと、父は調書を取っている時に、警官に向かって、早くこんな大したことないことなら、取り調べを終わらせてくれと言ったらしく、警官たちにかなり激怒されたと母から聞いた。
また、前日の夜にかなり飲酒して、早朝車に乗ったところ、車とぶつかりそうになり、怒り狂った父は表に出ろと、言い合いになったが、相手が酒の匂いがすると通報し、飲酒運転で捕まった。30年以上前のこと。
その後、なぜか父は47歳ごろに部長に昇進した。ずっと俺は偉いんだぞが口癖だった。一般的な飲食店で食事をしていると、「お父さんはこんなお店で食事をする人じゃないんだぞ」と大きな声で話していた。恥ずかしくて辛かった。母もやめてというが、どこのお店に入っても不満を言っていた。お酒も飲んでいて気が大きくなっていたのだと思うが本音だと分かった。学歴コンプレックスが強い人だった。
高校生の頃の私は心底父を軽蔑していた。
こんな人間にはなりたくないと。人として嫌悪していた。
高卒で働いているから、同期と昇進が10年遅れて苦労した。だからお前は絶対に大学に行けと。
18歳。体調を崩した。受験に失敗した。そして父が原因不明の皮膚病にかかったと聞いた。のちに癌だと判明。
19歳、体調不良を抱えながらも12校受けた大学のうち、1校だけ合格した。あの一年は死ぬかと思った。19歳の12月に虫垂炎で手術をした。1月のセンター試験はボロボロだった。退院してからは糸が切れたように勉強をやめていた。
1校受かったのは本当に運が良かったと思う。
19歳の夏、大学一年生の時に父のがん治療が全く効果がないということがわかった。もうあとは死を待つだけになった。
19歳の3月に死んだ。怖かった。
20歳は父の死の関係で忙しかった。
21歳の9月に突然通学の電車内で、あ、これはダメだと思った。そして通院を始めた。森の中にある、道はすべて砂利と土の道。格子のついた窓のある病棟。薄暗い雰囲気だった。その門を潜った時の敗北感をよく覚えている。
94年9月のことだ。
主治医は薬を飲むことに抵抗する私に、今の薬は依存性もなく安全だからと勧めてきた。こちらも辛いので渋々飲み始めたら劇的に効果があった。
飲むとすうっと効いてくるのがわかった。多幸感もあった。
しかし根本的には良くならかったが、薬を飲めばとりあえず凌げたのでずっと薬は飲み続けた。
大学は3年生からは週に1度行くか行かないかだった。怖くて電車にも乗れず、食事も怖かったから。
大学4年生になった時には卒論以外全ての単位をとっていたので、年に2~3回ほどしか行かなかった。行けなかった。病状は悪化していた。
薬は増える一方だった。
結果的に大学は無理やり卒業できたが、新卒では働けなかった。怖かった。
一年何もせず引きこもった後に国家資格のための学校に行った。
結果的に国家資格は取得でき、24歳から働き始めた。その時の薬の量は13錠まで増えていた。最大16錠まで増えた。
11年働いたが、ダメだった。動けなくなった。いくら薬を飲んでも良くならないし、効かない。休みがちになり休職すること2回。
結局遠回しにクビになった。
そして、10年ほど前に飲んでいる薬が依存性があるので極力飲まないようにと厚労省から通達が出た。30年前は安全、依存性はないとのことだったが、20年経って、その依存性が社会問題化し、厚労省は安易に処方するなと言い始めたが、10年経った、今もやめられず苦しんでいる。飲んでも効き目がないのだが、飲まないと不安になるので飲んでいる。
今でも大学の単位が足りないという夢を見る。本当に大学は恐ろしかった。怖かった。
最近になって、父が夢に出なくなった。
ここ10年ほどで、色々諦めた。結婚も諦めた。一生独身で過ごすつもりだ。
数年前から母がパーキンソンにかかり、去年急激に進行して、介護が必要になった。そこで妹と揉めた。妹は自分で面倒見ると。私は早急に介護保険を使うべきと。
妹からは何も介護をしていないくせにと怒られた。ものすごい剣幕だった。
私は母のことが嫌いというわけではないが、一緒に過ごせない。一緒にいると具合が悪くなる。アップルウォッチが高心拍のアラートを出し続ける。我慢しかない。介護のために実家に訪れることが多くなったが、我慢だ。我慢だ。母が死ぬまでの我慢だ。
あと、2週間弱で父の命日だが、今年も墓参はしないつもりだ。おそらく忘れて過ごすと思う。父が死んで本当に良かった。生きていたら私は生きていない。
もっと自由になりたい。自分のために生きていきたい。疲れた。

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