![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/112467626/rectangle_large_type_2_248ebcd7eb6a01b6c644b3c8ab254942.png?width=800)
あるべき姿に従うのが日本人の(特に女の子)生き方❓〜明恵「あるべきやうは」考察事始め①
(ヘッダー画像は、『月影ベイベ』第1巻よりお借りしました)
「あるべきやうは」とは、今から千年前、鎌倉時代の高僧明恵の言葉。
明恵は、鎌倉幕府の北条泰時に多大な影響を与えた。
貞永式目の法的根拠に対してアドバイスを与えた。
「あるべきやうは」は、千年前の言葉であるにもかかわらず、現代人にも訴えかけてくる。
あるべき姿は?と問うているのかな?と。
『月影ベイベ』は、富山県の八尾町のおわら風の盆という伝統行事を描いている。
老いも若きもこの伝統から生きる目的を与えられ、輝いている。
もしかしたらこれが「あるべきやうは」ではなかろうか?
と、大胆な仮説をぶちあげました😆
ヘッダー画像の真ん中のコマの女の子は松井里央、おわら風の盆でセンターを勤める女の子。
学校でも目立った存在。
彼女はここで、転校生の峰岸螢子を「とんでもない嘘つき」と断罪し、
そればかりか、「みんな気をつけられし」と、指示までしている。
なんでこんなことになったのかは、ここでは割愛する。興味のある方はご自分でお読みください。
このたった3コマから、日本人のあるべき生き方が浮かび上がってくる。
①「あの子なんなの、転入して早々やたら目立っとるが」
…転校生の峰岸螢子は、松井里央(とその取り巻き)のような地域のリーダーに、自分を認知させなければいけない。
それをせずに、自分の気持ちのままに振る舞うと、このように断罪される。
②「あの子とんでもない嘘つきやが。みんな気をつけられし」
…地域のリーダーたちに自分を認知させる手順を踏まなかった場合、峰岸螢子の行動は、リーダーやその構成員にとって、悪意のあるものと解釈される。
リーダーは、群れの構成員が峰岸螢子から被害を受けないよう、構成員に注意を与えているのだ。
心理占星学流にいうなら、松井里央の一連の言動は、思考という機能ですよ〜と言うこともできる。
場の論理(この場合伝統ある街の流儀)を正しく理解し、それにそって行動する。
場の論理に合わないものは、切って捨てる。
この話はフィクション。
峰岸螢子は、その踊りの才を紆余曲折ののち認められるが、
現実の社会では、どこかで切って捨てられて、自己否定感に苛まれたまま苦しい一生をおくる人もいるであろう。
いや、そっちのほうが多いんじゃないか❓
「あるべきやうは」は、近代ヨーロッパの実存主義のような、個人が神と対峙することかと、私は当初誤解してしまった。
そんなはずはないのだ。
この言葉が想定しているのは、輝く場を失った近代的個人ではない。
鎌倉時代、日本には絶対者としての神などいなかったのだから。
神といえば、ご先祖さまに直接繋がる地の神様があり、そこに大陸から伝わった仏教思想が混合した。
明恵上人は和歌山の武家に生まれ、僧を志して学僧となった。
学僧としてなにかの社会的地位を得ることに全く興味を示さず、ひとりで厳しい修行を続けた。
しかし孤高の人ではなく、周りの親族たちにも影響を与えていた。
仏教の発祥の地天竺(インド)行きを企てた時は、明恵上人の従姉妹にあたる糸野御前に春日明神が降り立ち、天竺行きを諦めることとなった…
明恵上人は、自分の所属する一族の社会の、集合無意識の体現者だったのではないだろうか❓
『月影ベイベ』の松井里央のように。
続きます😘
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?