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あるべき姿に従うのが日本人の(特に女の子)生き方❓〜明恵「あるべきやうは」考察事始め①

(ヘッダー画像は、『月影ベイベ』第1巻よりお借りしました)

「あるべきやうは」とは、今から千年前、鎌倉時代の高僧明恵の言葉。

明恵は、鎌倉幕府の北条泰時に多大な影響を与えた。
貞永式目の法的根拠に対してアドバイスを与えた。

「あるべきやうは」は、千年前の言葉であるにもかかわらず、現代人にも訴えかけてくる。

あるべき姿は?と問うているのかな?と。

『月影ベイベ』は、富山県の八尾町のおわら風の盆という伝統行事を描いている。

老いも若きもこの伝統から生きる目的を与えられ、輝いている。

もしかしたらこれが「あるべきやうは」ではなかろうか?

と、大胆な仮説をぶちあげました😆

ヘッダー画像の真ん中のコマの女の子は松井里央、おわら風の盆でセンターを勤める女の子。
学校でも目立った存在。

彼女はここで、転校生の峰岸螢子を「とんでもない嘘つき」と断罪し、

そればかりか、「みんな気をつけられし」と、指示までしている。

なんでこんなことになったのかは、ここでは割愛する。興味のある方はご自分でお読みください。

このたった3コマから、日本人のあるべき生き方が浮かび上がってくる。

①「あの子なんなの、転入して早々やたら目立っとるが」

…転校生の峰岸螢子は、松井里央(とその取り巻き)のような地域のリーダーに、自分を認知させなければいけない。

それをせずに、自分の気持ちのままに振る舞うと、このように断罪される。


②「あの子とんでもない嘘つきやが。みんな気をつけられし」

…地域のリーダーたちに自分を認知させる手順を踏まなかった場合、峰岸螢子の行動は、リーダーやその構成員にとって、悪意のあるものと解釈される。

リーダーは、群れの構成員が峰岸螢子から被害を受けないよう、構成員に注意を与えているのだ。

心理占星学流にいうなら、松井里央の一連の言動は、思考という機能ですよ〜と言うこともできる。

場の論理(この場合伝統ある街の流儀)を正しく理解し、それにそって行動する。

場の論理に合わないものは、切って捨てる。

この話はフィクション。
峰岸螢子は、その踊りの才を紆余曲折ののち認められるが、

現実の社会では、どこかで切って捨てられて、自己否定感に苛まれたまま苦しい一生をおくる人もいるであろう。
いや、そっちのほうが多いんじゃないか❓

「あるべきやうは」は、近代ヨーロッパの実存主義のような、個人が神と対峙することかと、私は当初誤解してしまった。

そんなはずはないのだ。
この言葉が想定しているのは、輝く場を失った近代的個人ではない。

鎌倉時代、日本には絶対者としての神などいなかったのだから。
神といえば、ご先祖さまに直接繋がる地の神様があり、そこに大陸から伝わった仏教思想が混合した。

明恵上人は和歌山の武家に生まれ、僧を志して学僧となった。
学僧としてなにかの社会的地位を得ることに全く興味を示さず、ひとりで厳しい修行を続けた。

しかし孤高の人ではなく、周りの親族たちにも影響を与えていた。
仏教の発祥の地天竺(インド)行きを企てた時は、明恵上人の従姉妹にあたる糸野御前に春日明神が降り立ち、天竺行きを諦めることとなった…

明恵上人は、自分の所属する一族の社会の、集合無意識の体現者だったのではないだろうか❓

『月影ベイベ』の松井里央のように。

続きます😘



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