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どん底人生からの脱却〜私が占い師になるまで〜① 幼少期編

"生まれた瞬間の顔が見たかった"

母が私を出産するのにかかった時間は28時間。
丸一日以上陣痛の苦しみに耐え、あまりの痛みに母は気を失ってしまい、生まれた瞬間の私の顔を見る事ができなかったそうです。
出ては引っ込み、引っ込んではまた出て・・・の繰り返しだったそう。

まるで、この世に生まれ出る事をためらうかのように。
今後の辛くて苦しい人生を物語っていたのかもしれません。
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1977年1月。真冬の寒い日に誕生した私は虚弱体質で喘息・アトピー・アレルギーがひどくかゆみで一日中泣き続け、ベッドに寝かせると呼吸ができないため、母は一日中私を抱っこしていないといけなかったそうです。

いろんな病院に駆け込んでも治らず、かかないようボロボロの肌に薬をつけて
包帯でぐるぐる巻きにしていたので、保育園や幼稚園ではミイラみたいで気味
が悪いといじめられてしまい、ほとんど通う事ができませんでした。

そこで母は昼間は内職、夜は祖父母に私を預け、指圧のアルバイトを細々としていました。

家は大変貧しく、6畳のボロ団地に住んでいましたが病院代がかさみ食料が買えず
父と母の実家で食べさせてもらう事がほとんどでした。

父が家にいた記憶はほとんどありませんでした。ずっと後から知ったのですが
儲かるビジネスがある、との言葉にのせられ数千万円の借金を作ってしまい金融屋から身を隠すために長距離トラックや日雇いの仕事をしつつ、ほとんど家に帰ってこなかったようです。

怖い◯クザが家に取り立てに来た事も何度かあったようで、母は幼い私を抱えて
1人で怯えていたそうです。無理やり印鑑を押すよう強要されたこともあったとか

まさしく、リアル ”ミナミの帝王”  ”ナニワ金融道” の世界だったそう。

母方の家族は祖父以外離婚するように勧めていましたが、母は私が片親になる事
を避けたかったのか、どんなに苦労しても離婚という決断をしなかったのです。

大変な思いで産んでくれたのに、産んでからもずっと苦労をかけていたなんて。
後から知って申し訳ない気持ちと、産んでくれた感謝の気持ちでいっぱいでした。

私の家系は少し特殊で、父方の祖父は高野山の僧侶を経てあるお寺の住職をしており、祖母は人を天国に導く御詠歌人でした。

長男だった父は、祖父には厳しく祖母にはとても甘やかされて育ったようで
真言宗お寺の長男は後を継ぐのが習わしだったそうですが、寺の仕事はいやだ、
他の仕事がしたいと後を継ぎませんでした。仏教の知識はあるが、ビジネスの知識はまったくないままいろんな商売に手をつけてしまったのが失敗の原因だったのでしょう。

母に大変な苦労をかけた父のことを、つい最近まではとても恨んでいました。

人前にほとんど出る事がなかった私は、引っ込み思案で言葉もうまく話せず、週に一度団地に回ってくる移動図書館の本たちが唯一の友達でした。
めったにお出かけしない家でしたが、信仰心はあったので高野山へのお参りには
よく行きました。外食したり父と遊んだ記憶はその時くらいでした。

なぜ父はいつも家にいないんだろう・・・物心ついた頃から何かおかしいなと思っていましたが、母はいつも気丈で明るく優しかったので、私も気にしないようにしていました。

母の献身的な看病で少しずつ喘息もよくなり、なんとか小学校に入学できた私にも少しずつ友達ができ始めお友達の家にも遊びに行くようになったのですが、みな自分専用の部屋をもっていて、土日はお父さんがいて一緒に遊んでくれたり、しょっちゅうパーティを開いたり・・・自分の家との違いに気づき始めました。

友達の家に遊びに行くと、自分の家にも呼ばなくてはなりません。恥ずかしくて ボロボロの家に呼ぶ事ができなかったので、せっかくできた友達からも少しずつ距離を置いてしまい、またいじめられて一人ぼっちになってしまいました。

団地の小さな窓からいつも飛行機を眺めては、いつか健康になって広い世界へ羽ばたいてみたいと願わずにはいられないような孤独な幼少期を過ごしていましたが、この時はこれ以上の不幸に見舞われるとは全く想像していませんでした。

②に続きます










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