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"世紀末覇者"は実在したのか?

※北斗の拳に関する考察ではなく、中国史が主題の記事です。ご注意。

はじめに

今回は、漫画"北斗の拳"に登場し、作中屈指の圧倒的人気と知名度を誇る存在について論じてみようと思う。
"世紀末覇者"である。

北斗の拳は、主人公ケンシロウが伝説の暗殺拳"北斗神拳"を武器に敵と戦うバトル漫画であるが、そんなケンシロウの強敵(とも)の1人に、"世紀末覇者"を自称するラオウという男が登場する。
このラオウは、幾度となく重なるケンシロウとの激闘、そして神々しさすら感じさせるその結末が話題となり非常に人気のあるキャラクターなのだが、詳しい説明はここでは割愛させていただく。(ちなみに筆者は少々苦手)
問題は"世紀末覇者"である。世紀末覇者とは何なのだろうか?

世紀末覇者とは、世紀末の覇者なのだ

世紀末覇者という言葉はおそらく作者である武論尊先生の造語であるが、意味自体を推測するのはそれほど難しくない。
文字通り、世紀末に生きる覇者のことであろう。
世紀末というのもわかりやすいのでいったん置いておくとして、覇者という言葉の意味についてもう少し見てみよう。

覇者
覇道をもって天下を治める者。徳によらず武力や権力で天下を治める者。特に、中国春秋時代の諸侯で武力・政治力にすぐれ、他の諸侯に対して支配権をもった者。

(精選版 日本国語大辞典より引用)

この"覇道"は古代中国の儒学者、孟子の唱えた概念で、簡単に言えば力によって一方的に天下の支配を試みる手法のことである。己の拳で立ち向かうもの全て捻じ伏せるラオウの生き様はまさに"覇者"と呼ぶにふさわしいと言えよう。

さて、ここまで調べてふと気になったことがある。
世紀末って、別に20世紀末でなくてもよいのではないか?
20世紀末ではない世紀末覇者ならば、ひょっとしたら歴史上実在するのではないか?
大変前置きが長くなったが、これが本日の主題である。

世紀末覇者を定義する

さて、先ほどは覇者を"力により天下を支配する存在"と説明したが、これではあまりにも定義が緩いし主観的になってしまう。信長もナポレオンもアウグストゥスもメフメト2世もみんな覇者となってしまっては面白くないので、もう少し狭義の"覇者"を用いることとしよう。

すなわち古代中国、春秋時代の覇者である。

この春秋時代は紀元前770年から前403年(諸説あり)、それまで支配的であった周王室の権威が揺らぎ、諸侯による実力支配へ推移していく過渡期であった。
そもそも覇者という言葉は、孟子がこの春秋時代の権力の変移(正確にはその手法)の是非を議論するために生み出したものであるから、春秋時代の覇者こそより原義に近い覇者であると言える。
さらに孟子は、春秋時代には五覇、すなわち5人の覇者がいたと論じている。これが後世、春秋五覇と呼ばれる5人である。
そこで今回は、この春秋五覇を世紀末覇者候補として取り上げることにしよう。

さらに、北斗の拳の作中の時代は一九九×年と作品冒頭で明示されていることから、ラオウは西暦1990年以降に覇者を名乗った20世紀末覇者であると解釈することができる。
これに則り、世紀末の10年間に、代表的な対抗勢力を合戦等で撃破、または諸侯を集めて会盟と呼ばれるサミットを主催といった覇者たる功績を行うことを、世紀末覇者の条件と定義することにする。

なお、春秋時代は紀元前であるため、年号の数字の取り扱いには少々注意する必要がある。
例として、紀元前6世紀は前600年から始まり前501年が最後の年となる。
つまり、紀元前6世紀末は前510年~前501年の10年間である。ややこしい。

世紀末覇者の候補の候補

あとは春秋五覇を順番に検証するだけ……と行きたいところなのだが、問題が1つある。
春秋五覇が、細かく数えれば19人いるのだ。

まず孟子は、"五霸の中では斉の桓公が最も力があった(五霸は桓公を盛なりと爲す)"としか、つまり五霸の中では斉の桓公についてにしか言及していない。(孟子/告子下より)
この後、五霸というフレーズが独り歩きし、後世の様々な文献が、思い思いの五霸を列挙するというボクの考えた最強の五霸状態に陥っている。
ひとまず、そんな様々な文献に登場する五霸の候補者達を順番に短く紹介していこう。

斉の桓公
原典で言及されているため外せない。覇者筆頭。名宰相、管仲との関係が有名。人を見る目はあんまりない。

晋の文公
言及されていないが、誰もが挙げるためこの人も外せない。19年間亡命生活を続けた苦労人。恩も恨みも忘れない。

秦の穆公
文公の後ろ盾にして人格者。あまりにも慕われすぎてその死後に殉死者が相次ぎ国が傾いた。

宋の襄公
桓公の子。国家存亡の危機に見当違いな武士道を発揮して戦に負ける。

楚の荘王
南の大国の王。内政も戦争も抜群に上手い。鳴かず飛ばず、鼎の軽重、絶纓の会とエピソードが豊富。

呉王闔閭
クーデターで成り上がった実力者。風林火山でお馴染み孫子(孫武)の雇い主。

越王勾践
臥薪嘗胆で肝を舐めた人。

たいていはこの7人のうちの5人が挙げられることが多い。
(桓公、文公は必ず入る)

この他に頻度は低いが、以下の2人が挙げられることもある。

呉王夫差
闔閭の子。臥薪嘗胆で薪の上に寝た人。

鄭の荘公
桓公より前の時代の人。周の凋落を決定づけた張本人ともいえる。

更に続けよう。
この春秋時代は周王室の権威が他に移った時代であることは先に説明したが、その権威を周に代わって継承し、他国を従えた存在こそが覇者であると言える。
明確に覇者としての地位を最初に確立したのは斉の桓公であるが、その後の斉は桓公の人の見る目の無さが一因で比較的早くに没落し、晋の文公がその権威の大部分を引き継いでいる。以後、春秋時代を通して晋はその権威をある程度維持するが、最終的に晋は分裂し、この"周王室の流れを組む権威”は雲散霧消、問答無用のバトロワ時代である戦国時代が幕を開ける。
(晋の実質的な分裂は前403年、これを春秋時代の終わりとする考え方が一般的)

つまり、覇者を"周王室の権威の継承者"と考えると、桓公の権威を引き継いだ文公以降の晋の君主を、その権威が失われるまで軒並、覇者にカウントしていくという考え方もできる。
すなわち文公、襄公、霊公、成公、景公、厲公、悼公、平公、昭公、頃公、定公である。11人いる!
(定公の次代の出公で晋は分裂する。)

とはいえ流石に多すぎるし、暗君だったり暗殺されたりで覇者としては微妙な君主も中には混ざっているので、ここでは文公以外の10人はカウントしないこととしよう。

これらを踏まえ世紀末覇者の候補は、以下の9名を検証していくこととする。

五覇確定の2名
(斉の桓公、晋の文公)

レギュラー入りを狙える5名
(秦の穆公、宋の襄公、楚の荘王、呉王闔閭、越王勾践)

補欠2名
(呉王夫差、鄭の荘公)

さあ、検証だ

以後、各人が最も覇者の資格を確立したと思われる功績を順に列挙し、その年号を確認していくこととしよう。
まずは覇者筆頭、斉の桓公である。

斉の桓公
葵丘の会盟を主催し、周王室より諸侯の盟主としての地位を認められる。
前651年。

残念ながら世紀末ではなかった。次行こう。

晋の文公
中国古代史上最大の戦車戦である、城濮の戦いで楚の成王の部下、子玉の軍を破る。
前632年。

ここで覇者 of 覇者の2人が撃沈してしまった。
続いてレギュラー候補たち。

秦の穆公
西戎を破り、秦の領土を西に大きく広げて西戎の覇者と呼ばれる。
前624年。

段々近くなってきた。あと15年。

宋の襄公
斉・楚と会盟し、盟主としての地位を大国である斉と楚に認められる。
前639年。

遠のいてしまった。
ちなみに楚はその後立場を一転し、襄公を監禁している。
その後、宋と楚はバチバチにやりあう関係となり、宋を晋が助ける形で城濮の戦いが起こることとなる。

楚の荘王
邲の戦いで積年のライバル晋に大勝する。前597年。
宋の都である商丘を落とし、宋を傘下に収める。前594年。

今度は行き過ぎてる。わずかに3年。
邲の戦いは城濮の戦いのリベンジマッチにあたる。これにより晋の覇権は失われはせずも衰え、代わって楚が台頭することとなる。

呉王闔閭
柏挙の戦いで楚に大勝し、都である郢を落とす。
前506年。


いた。


この呉王闔閭は、天才兵法家の孫武、復讐の鬼である伍子胥を重用して国力を充実させ、大国である楚を壊滅にまで追い込んでいる。
その楚を破った柏挙の戦いは前506年。楚の荘王からいきなり90年ほど時代は進むが、紀元前6世紀末に相当する。
闔閭を春秋五覇として扱う文献は、『荀子』の王覇篇、『白虎通義』の号篇などがあり、いずれも儒学書の超メジャータイトルとして名高い。
覇者である。まぎれもなく世紀末覇者である。

さて、世紀末覇者は見つかったが、ついでに残りの3人も検証してみよう。
次の2人はセットで考えるとわかりやすい。

越王勾践
呉王夫差を破り、覇権国であった呉を滅ぼす。
前473年。

呉王夫差
斉を破り、盟主としての地位を晋と争う。
前485年。

そう。呉は滅んでいる
時系列順に簡単に説明すると以下のような経緯となる。

楚を破った呉王闔閭に越王勾践が挑戦。
→虚を突かれて闔閭が敗死。子の夫差が薪の上に寝て復讐を誓う。
(薪の上に寝る故事は後世の創作の可能性が高い。)
→夫差が勾践を破る。勾践は肝を舐めて復讐を誓う。
→夫差が覇者の座を狙って晋と争う。
→それに乗じて勾践は呉に侵攻。最終的に呉を滅ぼす。

呉王夫差は確かに一時覇権を握ったと言えるが、亡国の君主でもあるので覇者かどうかは微妙な立ち位置にある。
言わずもがな、この呉と越の因縁めいた関係性は、臥薪嘗胆、呉越同舟といった故事成語のもととなっている。
いずれにせよ、2人とも世紀末にはあたらない。最後の1人に行こう。

鄭の荘公
繻葛の戦いで周の桓王が率いる連合軍を破り、周の支配から脱する。
前707年。


もう1人いた。


この繻葛の戦いは、周王室の権威失墜の象徴として歴史上重要な意味を持つ。
ただし、周の権威がそのまま勝者の荘公に引き継がれたわけではないので、荘公を覇者と捉えるかはこれもまた解釈の分かれるところだ。
荘公を五覇の1人とする文献には20世紀初頭の学者、朱起鳳の著した大辞典『辞通』がある。名著として名高いが、儒学書として権威は『荀子』や『白虎通義』には及ばない。
だがせっかくなので、彼も紀元前8世紀の世紀末覇者としてここでは取り扱うことにしよう。

まとめ

世紀末覇者は、以下の2名が歴史上実在した。

呉王闔閭
紀元前506年、柏挙の戦いで楚に大勝し、紀元前6世紀末覇者となる。
『荀子』の王覇篇、『白虎通義』の号篇で春秋五覇 に挙げられる。

鄭の荘公
紀元前707年、繻葛の戦いで周を破り、紀元前8世紀末覇者となる。
『辞通』で春秋五覇に挙げられる。

最後に

世紀末覇者の実在を証明することができ、大変満足である。
特に呉王闔閭は春秋五覇の1人として扱われる機会も多く、現代からみれば文句なしの覇者である。彼が世紀末の人間であることが分かってとても嬉しい。

そんな呉王闔閭だが、彼が呉王に即位する経緯から次代に呉が滅亡するまで、家臣、ライバル、後継者と非常に魅力的な人物が周囲に多数登場する。
簡単に挙げるだけでも先に述べた孫武、伍子胥に加え、春秋戦国四大刺客の1人専諸、奇策を得意とする越の知恵袋范蠡、滅亡しかけた楚を涙で救った伍子胥の親友申包胥がいる。
ちなみに筆者が好きなのは伍子胥である。伍子胥は最終的に呉王夫差と対立し自害に追い込まれるが、その際の捨て台詞までもが何とも痛快でかっこよい。詳細はぜひWikipediaを。

最後にそんな世紀末覇者闔閭、激情の復讐者伍子胥が登場する作品をいくつか紹介して終わりにしたいと思う。

史記 全11巻セット (小学館文庫)

迷ったら大御所。他の春秋五覇も登場するので分かりやすい。
伍子胥の生き様だけが読みたいのであれば2巻だけ買うのもあり。
(切りよく始まって切りよく締められている。)

江河の如く 孫子物語 (中経☆コミックス) Kindle版

"孔明のヨメ"作者が孫武を主人公とした作品。単巻なので買いやすい。
部下のくノ一の子が可愛い。

呉越春秋 湖底の城

全9巻の歴史小説。司馬遼太郎が霞むレベルの綿密な描写。
宮城谷昌光作品では天空の舟もオススメ。


長らくお付き合いいただきありがとうございました。
我が雑筆に一片の悔い無し

(見出し画像は北斗の拳1巻p3より引用)

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