【プラザ合意と日本潰し】日本経済が破滅に向かう転機となった「プラザ合意」~「日本経済は植民地化される」隠されたアメリカの卑劣な手口~
■「双子の赤字」を抱えていた米国が行ったプラザ合意の衝撃
シリコンバレー物語~IT巨人の実像と今後(5)プラザ合意と日本潰し
テンミニッツTV 2021/07/08 島田晴雄 慶應義塾大学名誉教授
~~~
・「アジアの覇者」気取りが招いたプラザ合意
実は半導体摩擦の背景に、もっと恐ろしいことがありました。
日本の対米輸出があまりにすごかったため、圧倒的な対米黒字を呈していました。
これをなんとかしないといけないという大戦略があり、ベーカー財務長官というよくカウボーイハットをかぶるテキサス人がとてつもないことを行ったわけです。
世界の常識を完全に破ったのですが、それがプラザ合意です。
1985年当時、日本は確かに土砂降り輸出をしていました。
また1985年と86年の2カ年にわたっては、日本の1人当たりGDP(ドル換算)がアメリカを上回ったときがあるのです。
日本は非常に得意になった面もあり、自分では「アジアの覇者」気取りでしたが、これで完全にアメリカの虎の尾を踏んだわけです。
1985年9月22日、ニューヨークのプラザホテルに先進5カ国の大蔵大臣と中央銀行総裁が極秘に呼び集められます。
日本からは竹下氏が訪米しますが、大臣が突然動くと大きな話題になります。
そこで彼はゴルフ場を二度ハシゴした帰り道、ゴルフクラブと一緒に羽田空港へ乗り付け、気がついたらニューヨークに飛んでいた。
日本のメディアは皆、肩透かしを食らったのですが、そこまで注意して行ったわけです。
現地ではベーカー氏が事前に欧州各国に周到な根回しをしていて、竹下氏が着いたらサインさせるだけになっていました。
経産省や財務省も事前にそれを承知していて、トータル15分で儀式は終わり、サインしたのだそうです。
これはアメリカの対日赤字が突出していたために、円高・ドル安にシフトしようということでした。
政治が為替レートに口を出すのはタブーですが、ベーカー氏にはそんな規範はなく「口先介入」どころか平気で「大声の」介入をしたわけです。
日本ではたちまち為替レートが変わり、24時間で1ドル235円から215円になって、1年後には150円台になっていきました。
これはレーガン政権のときのことです。
「双子の赤字」を抱えて大変なことになっていたレーガン政権では、日本が諸悪の根源だということになったようです。
・バブルの原因と結果が招いた「失われた20年」
プラザ合意のためにドカンと円が上がったものですから、輸出産業は当然、打撃を受けます。
このため、日本は一時深刻な不況に陥ります。
そこで政府と日銀は大規模な財政支出と公定歩合の極端な引き下げを行い、景気刺激策を取リました。
景気回復後の日本は、金融的な手段で需要を増やしていたために流動性が非常に高まっていました。
日本経済は、実質的にそれを吸収する体力がなかったので、ほとんどが過剰流動性になり、株や土地への投機に流入しました。
それで地上げが横行し、株価もとんでもなく上がります。
「東京23区を売ると、アメリカが買える」とか、「日本列島を売ると、アメリカを4つ買える」など、バカな話が散々あった時代です。
当時は宮澤政権で、ベーカー氏に遠慮した形になり、政府・日銀の対応は非常に遅れました。
ようやく4~5年たった1990年になって初めて強力な引き締め策を敢行します。
この間にバブルがとてつもなく膨張します。
宮澤氏は、それに対してブレーキを踏めませんでした。
90年3月、まず大蔵省が土地関連融資の総量規制を行います。
金融の総量規制などは資本主義と呼べるものではなく、不動産業者の半分ほどが倒産しています。
そこへもってきて、(当時日銀総裁の)三重野康氏が金融引き締めを行い、公定歩合をガンと上げます。
そのために信用収縮が起き、地価は急落、株価も急落します。
地価の急落は担保価値を激減させますから、多くの企業は負債が急増します。
金融機関は貸付金の貸し剥がしを強行しますが、企業はどんどん倒産して、何も返ってこない。
そのために不良債権は全く減らず、逆に銀行が倒産する。こうして金融危機が深刻化します。
この結果、日本経済は急激に、しかも長期の不況に追い込まれます。
これは象徴的ですが、「バランスシート不況」といわれるものです。
バランスシート上の負債は減らないのに資産価値が激減するので、借金がそのまま増えてしまうわけです。
企業はその返済のためにコスト削減をしなければいけないので、企業活動が萎縮します。
生産と投資の減退です。さらに、不良債権を減らせない銀行は、どんどん破綻していきます。
結局、日本はこれ以降、失われた20年(そろそろ30年)となり、1990年代から2010年代初頭まで20年間にわたって1パーセント前後の極端な低成長となります。
~~~
「双子の赤字」を抱えていた米国が行ったプラザ合意の衝撃
シリコンバレー物語~IT巨人の実像と今後(5)プラザ合意と日本潰し
テンミニッツTV 2021/07/08 島田晴雄 慶應義塾大学名誉教授
■《久保田勇夫の一筆両断》回想の「政」と「官」(4)プラザ合意
産経新聞 2018/10/15
~~~
1986~88年の宮沢喜一大蔵大臣の最大の問題意識は、前年、即ち85(昭和60)年の「プラザ合意」以降の急激な円高にどう対処するかだったと言って間違いない。
「G5」と呼ばれている日、米、独(当時は西独)、仏、英の蔵相・中央銀行総裁会議の存在はそれまで公にされていなかったが、このニューヨークのプラザホテルでの会合によって公になった。
それは、この会合を世間に強く印象づけようとする主催国アメリカの意図でそうなったと言われている。
そこで公表された「プラザ合意」は、当時の外国為替市場にとって、格別の意義があった。
この合意により米国のドル高政策が公に放棄され(米国のドル政策の180度の転換である)、主要国が「非米ドル通貨の秩序ある上昇」即ち「ドル安」を協調して目指すこと、そのためこの5カ国がそれに沿ったマクロ経済政策を採用すること、並びにその実現の為に外国為替市場に関係国が介入することとされたのである。
ドル安の相手通貨は、日本の円及び西ドイツ・マルクであったが、より注目されたのは円であった。
この合意の効果は世間の多くの予想に反して劇的なものであり、関係者の予想をも越えた。
特に円の対ドル上昇は激しく、85年9月23日の合意直前には1ドル238円であったが、同年年末には200円前後に、東京サミットが行われた86年5月には170円になり、宮沢大臣が就任された同年6月以降も上昇を続け、同年夏には150円台となったのである。円は1年足らずのうちに三十数%も切り上がった。
・二君に仕える
この間、即ち1985年夏から86年夏までの間の大蔵省のいわば竹下政権時代、私は先進国首脳会議(いわゆるサミット)やG5をとりまとめる国際金融局の国際機構課長のポストにあった。
外務省と大蔵省が担当するサミット(国際的には「経済サミット」と呼ばれている)の主催国は7年に1度廻ってきたが、86年は日本の番であり、私はこの年5月の東京サミットの大蔵省の担当課長であった。
86年6月には代わって宮沢大蔵大臣が就任され、大蔵省はいわば宮沢政権となった。
竹下登大蔵大臣は「プラザ合意」に参画し、それを実施された大臣であり、後任の宮沢大臣は「プラザ合意」後の円相場の急上昇に疑問を呈し、その流れを変える政策を推進された大臣であった。
この86年夏の大臣交代とほぼ同じ時期に大蔵省の国際部門のトップの交代があった。
竹下大臣と共に「プラザ合意」を進められた財務官は退官され、宮沢大臣は新しい財務官と組まれることとなった。
そして、私もこの夏、1年務めた国際機構課長から副財務官となり、この新しいチームの一員となった。
ただ私はある意味で前のチーム、即ち竹下大臣のチームの一員でもあった。
私は国際金融局の国際機構課長という立場で、ベネチアサミットやIMF総会などに竹下大臣にお伴をし、それらの準備会議に出席される財務官にもお伴をした。
そして、それらの会合や準備会合の合間に、当時の即ち竹下政権下の財務官や、副財務官が主要国と何やら秘かに作業をしていること(それはプラザ合意の準備であることが後日判明した)を知っていた。
また、上述の通りプラザ合意後の初のサミットである1986年5月の東京サミットでは、担当の課長として当時の中曽根総理や竹下大蔵大臣の国際金融政策に関する発言や応答内容を準備する立場にあった。
日本にとってこのサミットでの大きな主張のひとつは、進み過ぎる円高がいかにわが国に打撃を与えているかを訴え、もう円高(ドル安)はこれで打ち止めにしたいというものであった。
この東京サミット時の関係国大蔵大臣会合ではその議長である竹下大臣の通訳でもあった。
かくして私は、竹下大蔵大臣の下における円高受容及び進展期と次の宮沢大蔵大臣の下における円高防止の時期の双方に係わったのである。
・「円高」の深刻さ
冒頭述べたようにこの期の宮沢大蔵大臣の経済政策は、わが国に深刻な影響を与えつつある円高の進展をいかに防止するかがその中心であった。
大臣は就任早々からその政策の直接の相手方である米国のベーカー財務長官との直接会談を企図され、86年9月にようやくそれが実現し、そこで円高についての自らの懸念を率直に伝えて将来の方向について議論された。
その会議を踏まえて同年10月31日には、わが国の拡張的財政金融政策と引き換えに円高の対ドル上昇の停止について合意された。
いわゆる「宮沢・ベーカー共同宣言」である。
そして翌87年2月のこの日米間の合意をG5諸国の合意とした「ルーブル合意」を推進されたのである。
私は副財務官として9月末に始まったその「宮沢・ベーカー共同宣言」の草案の作成、ルーブル合意への「通訳」としての出席等の形でこのプロセスに濃密に参画した。
宮沢大臣のこの動きは、当時異常なスピードで進みつつあった円高が産業界に深刻な影響を与えつつあったことに対応したものであるというのが一般的な評価であるが、この説明は十分ではないかもしれない。
何故なら、当時は有力な政治家なら誰でも産業界からその円高の悪影響についての説明や陳情を受けていたはずだからである。
その中で宮沢大臣はこの円高の経済的意味、即ち、それが国際的貿易やサービス取引の価格の調整であること、従ってそのもたらす影響が一般に理解されている以上に深刻かつ長期的であるはずだということを理解しておられたからではなかろうかと考えている。
自国の通貨が1年足らずの間に例えば30%も切り上がるということは大変なことである。
これは、輸出入価格という点に注目すればわが国の全てのモノやサービスの(対外)価格が30%引き上げられるということを意味する。
それだけ競争力が低下するということである。
現在、アメリカがわが国から輸出される鉄鋼に25%、アルミに10%の関税を課することが問題となっている。
これは、貿易価格の調整という意味では、例えば鉄鋼製品についてのアメリカ向けの輸出価格が25%上昇することを意味するに過ぎない。
この伝で言えば、例えば円の30%の切り上げはわが国の全ての輸出品について、その輸出先の国のいかんにかかわらず30%の関税が課せられることと同じである。
しかも、モノについてだけではなくサービスについてもそうである。
こういう見方をすればこの円高が経済学的にみていかに衝撃的なものであるかがわかるであろう。
宮沢大臣が相当な対価を支払ってでもこの進行を阻止しようと考えられたのは当然であろう。
この政策論争を派閥争いのような次元の話としてとらえるのは間違いであると思う。
~~~
《久保田勇夫の一筆両断》回想の「政」と「官」(4)プラザ合意
産経新聞 2018/10/15
■起承転結で学ぶ、日本経済のバブル崩壊から異次元緩和までの歴史
・日本経済が破滅に向かう転機となった「プラザ合意」
東条雅彦 | マネーボイス 2017年8月8日
~~~
今回は「日本のバブル発生と崩壊」について解説していきます。
歴史は面白いもので、現在の出来事はすべて過去の出来事と繋がっています。
日本経済が1980年後半にバブルが生じて、その後、崩壊してしまったのは、米国や世界経済の情勢と大いに連動しています。
地政学的には米国の力が強いので、日本の金融政策は米国の政策に左右されてきた面があります。
1987年2月22日に先進国7カ国で交わされた「ルーブル合意」では、国際的にドル安とマルク安を止めるために、各国の中央銀行は協調すると約束しました。
この1987年の時点で、日本経済はバブルになっていました。
本来、日銀は自国経済を優先して、速やかに金利を引き上げるべきでした。
しかし、経済には政治も関係しており、そこには国と国の力関係が作用してきます。
ルーブル合意ではドイツと違って日本は米国の指示に従いましたが、これはバブル経済に拍車をかける、決定的な誤りでした。
ドイツは歴史的に「デフレよりもインフレの方が怖い」という事実を経験として知っていたため、ルーブル合意を実質的に破棄しました。
1980年代後半に起きた日本のバブル発生と崩壊の過程は、「インフレが起きている時に日銀が利上げできないとどうなるか?」ということを如実に表しています。
現在、日銀は「異次元緩和政策」を継続せざるを得ない状況に追いやられており、金利を引き上げることができなくなっています。
中央銀行はあくまで、自国の通貨価値を守ることを念頭に独立して政策を実施することが大切です。(『ウォーレン・バフェットに学ぶ!1分でわかる株式投資~雪ダルマ式に資産が増える52の教え~』東条雅彦)
・1989年12月29日、日経平均株価が3万8,915円をつけた
1989年12月29日、日経平均株価が3万8,915円をつけました。
この時がまさにバブルのピークでした。
その後、日本経済は「失われた10年」「失われた20年」「失われた25年」と、ゴールの見えない暗闇に突入していきます。
感覚が麻痺してわからなくなっている人もいるかもしれませんが、日本経済は今もこの暗闇の中にいます。
1989年の翌年の1990年10月1日には、日経平均株価は一時2万円割れを記録しています。
たった9ヵ月あまりで、半値近くまで暴落してしまったのです。
日本株の大暴落は1987年10月19日、ニューヨークダウがたった1日で22.6%も暴落したブラックマンデーとはまったく様相が違っています。
ニューヨークダウは、ブラックマンデーの約2年半後の1989年10月には値を戻しています。
日経平均株価はもうかれこれ27年が経過しているのに、なかなか当時の高値を更新できずにいます。
それは、1980年代後半に生じたバブルがあまりにも強大だったためです。
一体、どういう経緯で強大なバブルが生じてしまったのか?
歴史の点と点を線で結んでいくと、まるで起承転結のストーリーを見るかのように、過去の事実と未来の事実はしっかりと繋がっていることがわかると思います。
・【起】1970年代に起きた2度の石油ショック
1980年代後半に起きた日本のバブル崩壊のことを理解するには、一旦、時計の針を1970年代に戻す必要があります。
今から半世紀前の1974年、第一次石油ショックによって突如、世界中で物価の上昇が発生し、不況に見舞われました。
1973年10月16日、OPEC(石油輸出機構)が原油価格を70%も引き上げることを決定しました。
背景にあったのは、1973年10月6日から始まった第4次中東戦争です。
戦争によって安定的な原油の供給が難しくなりました。
日本では物価が一気に20%も上昇して、紙供給が困難になるという噂が広まって、トイレットペーパーを買うために長蛇の列ができていました(※これはあくまで噂が広まって起きた騒動である点には留意願います)。
この世界的な不況を脱出するために、日米独の3ヵ国が協調して大規模な財政出動を行って、世界経済を回復させようとしました。
しかし、その5年後の1979年、第二次石油ショックにより、再び、世界経済は不況に突入していきます。
石油の価格は中東の政情に大きく作用されてしまいます。
原油価格の推移を確認すると、100年近く続いた安値が1970年代に破られたことがわかります。
・【承】石油ショックから抜け出した日本と「双子の赤字」で苦しむ米国
1979年の石油ショックによって、再び世界経済は不況に突入してきます。
その不況から抜け出すために日本は大規模な財政出動を行い、世界に先駆けて不況から脱出します。
一方、なかなか不況から脱出できない米国は1980年代に入ると、「物価が上昇するのに賃金がまったく上がらない」というスタグフレーションに陥りました。
米FRBは急激なインフレを押さえ込むため、1979年には9%だった政策金利を翌年の1980年に一気に13%まで引き上げました。
その後もインフレ退治のために、FRBは金利を15%まで引き上げます。
その結果、世界中のお金が「ドル」に向かいます。
1年で10%以上の金利を得られるドルが人気化して、相対的に円の人気が下がります。
1981年1月、米国の大統領に就任したロナルド・レーガンは、このスタグフレーションから脱出するためにレーガノミクスを推し進めます。
1980年代前半、米国はドル高のために輸出競争力が落ちてきて、双子の赤字(貿易赤字&財政赤字)に苦しむようになってきます。
米国で売られていた日本の自動車が急に安くなり、飛ぶように売れていきました。
自動車産業が盛んなデトロイト市民は日本車を叩き壊して輸入急増に抗議しました。
1980年から1985年までの5年間で貿易赤字額(対日本)が4倍に増えて、米国政府の財政赤字も2.8倍に膨れ上がりました。
米国はなんとかしてこの双子の赤字を解消しようとしました。
自国だけの力ではどうしようもなかったので、国際協調を呼びかけます。
・【転】日本経済が破滅に向かう転機となった「プラザ合意」
1985年9月22日に米国のベイカー財務長官は、ニューヨークのプラザホテルに先進5ヵ国(日・米・英・独・仏=G5)の大蔵大臣(財務長官)と中央銀行総裁を召集しました。
そこで、米国は他国を説得してドル高を是正する協調行動への合意(=プラザ合意)にこぎつけることに成功しました。
参加各国が「ドルに対して自国通貨を一律10~12%幅で切り上げる」ことに合意して、為替市場で協調介入を行うことが決まったのです。
米国の狙いは明確でした。
一言で言えば、日本の輸出競争力を弱めて、米国の輸出競争力を高めることにありました。
その結果、1ドル236円(1985年9月)だった為替レートが、1年後(1986年9月)には1ドル154円まで円高ドル安が進みました。
たった1年で為替レートが約35%も動いたのです。
日本の輸出業者がダメージを受けてしまい、円高不況を生み出します。
日本は今までのように輸出で儲けたお金を国内に還流するというモデルを継続させるのが、政治的に難しい状況になっていました。
双子の赤字で苦しむ米国からの圧力は凄まじく、日本は経済構造の転換を迫られたのです。
1986年4月7日、中曽根内閣の私的諮問機関「経済構造調整研究会」が、日本の今後の経済政策をレポートにまとめました。
この研究会の座長であった前川日銀総裁の名前を取って「前川レポート」と呼ばれています。
この前川レポートの提言にそって、日本政府は経済政策を推し進めます。
レポートで謳われていた内容は、「内需拡大」と「産業構造の転換」でした。
この2つは米国が元々、日本に要求していたこととなります。
米国は自国の経済を守るために日本の輸出競争力を削ぎ落として、外需ではなく内需で経済が回るようにしてもらいたかったわけです。
日本は米国との貿易摩擦を解消するために、産業構造を「外需」から「内需」に転換することにしました。
前川レポートには、「10年で430兆円の公共投資を中心した財政支出を拡大すること」が記されています(これは米国に要求されたので、そう書いたのです)。
当時、まさかこの内需拡大政策への転換が「バブルの発生と崩壊」を引き起こし、日本政府が借金漬けになるきっかけを作ることを、明確に予想できていたエコノミストはほとんどいなかったと思われます。
・【結】1980年代のバブル発生とその崩壊
1985年9月22日のプラザ合意によって、日本は急激な円高に見舞われます。
・1ドル236円(1985年9月)→ 1ドル154円(1986年9月)
プラザ合意の想定を遥かに上回るペースで円高ドル安が進行していきました。
日銀は「円高不況」に対応するために急遽、公定歩合(今でいう政策金利)を約5%(1985年)から3%(1986年)まで引き下げました。
金利を引き下げることで、企業は投資を行いやすくなり、家計にとっては住宅ローン等が借りやすくなります。
日本政府も米国政府に要求された通りに、経済構造を外需型から内需型へ転換する政策を推し進めます。
政府の公共投資の拡大と日銀の金利引き下げによる「円高不況対策」は、結果的にバブル経済へと日本を追い込みました。
自国内でお金を回そうとした結果、お金の向かった先は「不動産」と「株」でした。
あろうことかさらに日銀は、1987年に(当時)史上最低の2.5%まで金利を引き下げます。
企業はお金を借りて株や不動産に投資する「財テク」に走り、銀行は収益性を度外視した不動産融資を増加させました。
当時の日経平均株価のチャートを見ると、本当に驚愕せざるを得ません。
1985年に1万3000円だった日経平均株価は、1989年12月29日に付けた3万8,915円まで上昇していきます。
5年間で日経平均株価は約3倍になったのです。
1987年10月17日の発生したブラックマンデーですら、単なる押し目買いのチャンスだと見なされていました。
日本株の平均的なPERは80倍にも達していました(一般的に適正だとみなされるPERは20倍前後だといわれています)。
NTT株のPERは177倍になり、日本航空株は400倍になりました。
当時はそれでも「株は下がらない」と信じられていた時代です。
今から思えば、プラザ合意(1985年)を受けて日本政府と日銀が行った内需拡大政策で生じた株高は、全部バブルだったのです。
当時の日本経済の実力では、1万3000円前後が妥当な範囲でした。
この株バブルと同時進行で、不動産バブルも猛スピードで進行していきました。
銀行はそれまで担保不動産の評価額までしか融資してこなかったのに、その時期は評価額の2倍まで融資が行われていたといいます。
企業は本業とは別に「財テク」と称して、銀行から資金を調達して不動産を買い漁りました。
1990年には日本の不動産評価額は2000兆円を超えて、日本の25倍の面積のある米国全体の4倍に匹敵する状況になっていました。
同じ面積で日本と米国を比較すると、日本の不動産評価額は米国の100倍に達していた計算になります。
当時は東京の山手線の内側の土地価格で、アメリカ全土が買えるという試算が出ていたそうです(そんなアホな!?)。
「企業の保有している不動産には莫大な含み益がある」と見なされて、株式も売買されていました。
その意味では「株バブル」と「不動産バブル」は完全にリンクしています。
日経平均株価は1989年12月末の3万8,915円を頂点にして、わずか9ヵ月後には2万円を割り込み、バブル経済は崩壊しました。
やはり「神の見えざる手」は存在しています。
実際の適正な価格に届くまで落ち続けるのです。
この後、「失われた10年」「失われた20年」「失われた25年」となり、今へと繋がっています。
・これまでの経緯のまとめ
【起】(1970年代)
・中東の政情不安から2度の石油ショックが起きた
↓
【承】(1980年代前半)
・日本は輸出業を中心に経済を立て直しつつあった
・米国はレーガノミクスにより双子の赤字を抱えるようになった
↓
【転】(1985年)
・先進各国は米国の要求を飲んでプラザ合意に応じた⇒円高ドル安の発生
・日本は経済を「外需」型から「内需」型に転換する政策を進めた
↓
【結】(1980年代後半)
・日銀の低金利政策と日本政府の内需拡大政策が裏目に出て、資金が株と不動産に向かい、日本をバブル経済に追い込んでしまった!
(1990年には日経平均株価が暴落し、バブル経済が崩壊した)
→ その後「失われた25年」に繋がっていく
・最後の賭けに打って出た「異次元の金融緩和政策」
日本のGDPはバブル経済が崩壊した1990年代前半からあまり伸びなくなってきて(下図の赤枠部分)、経済が停滞するようになります。
バブル崩壊後も、国債発行残高だけは確実に積み上がってきています。
気がつけば、GDPに比べて政府総債務残高が2倍以上に膨らんでいます。
日本経済の潮の目が変わったのは、1985年のプラザ合意です。
米国を救うためにすべての要求を飲みました。
米国に10年間で40兆円の公共投資を要求されて、1990年代には合計400兆円(10年間×40兆円)の債務を積み上げました。
元々の債務300兆円、米国要求の公共投資400兆円、その他(社会保障費等)300兆円、合計すると、債務は1000兆円を突破して、1990年代からGDPの伸び率が著しく鈍化したこともあり、既に財政の持続が不可能な領域に突入しています。
政府の一般会計歳出に占める主要経費の割合(2017年度)を確認すると、国債費(借金の返済):全体の24.1%(約4分の1)、社会保障費(年金、医療等):全体の33.3%(約3分の1)、に達しています。
この2つを合計すると57.4%です。
社会保障費と国債費の2つの経費に共通しているのは、政府の主体的な意志でコントロールするのが難しいという点です。
国債費は過去の借金の返済なので、支払いを拒むわけにはいきません。
社会保障費は高齢者の割合が増えれば、自動的に上昇していく経費です。
人口動態を短期で動かせないため、これも実質的にはアンコントローラブルな経費になっています。
1960年度の予算を見ると、国債費と社会保障費の合計割合がたったの12.6%でした。
昔の方が圧倒的に政府は「富の再配分」によって、自由な経済政策を実行できました。
今はもう6割近い支出が防戦型の経費(社会保障費、国債費)で消えていき、経済を良くするような攻撃型の経費に予算を配分するのが難しくなってきています。
そしていよいよ、行き詰った日本政府は最後の賭けに出ることにしました。
それが2013年4月から始まったアベノミクス(異次元の金融緩和)です。
日銀は、政府が毎年積み増す約40兆円分の国債を全量、買い切っています。
日銀が政府の債務を肩代わりしなければ、代わりに買い支えてくれるプレイヤーは存在しません。
現在、進行中の「異次元の金融緩和政策」は、我が国にとっては最後の金融政策となります。
リフレ政策の真の目的は「財政ファイナンス」と「金融抑圧」の2つです。
今までの歴史の点と点を結んでいくと、リフレ経済学は生まれるべくして生まれたものです。
そして、起承転結の物語りの「結」については、密かに現在進行形の話です。
日本円に対する信任がなくなるまで日銀は異次元緩和を続けて、政府の財政破綻という本当の結末がやってきます。
その結末に遭遇するまで、政府系エコノミストは「大丈夫だ」と言い続けるでしょう。
過去の数字を追っていけば、政府の財政持続が危うくなっていることは明らかなのに、国民には真実を伝えない…。
とても情けない話です。
~~~
起承転結で学ぶ、日本経済のバブル崩壊から異次元緩和までの歴史
・日本経済が破滅に向かう転機となった「プラザ合意」
東条雅彦 | マネーボイス 2017年8月8日
■日本経済を“丸ごと刈り取った”ユダヤの陰謀とは?
バブル経済崩壊、その巧妙な手口
exciteニュース 2016年11月8日
~~~
・日本の富を「刈り取る」ために80年代に実施された仕込み
より広い見方をすれば、日本から富を収奪する計略は、1972年にロックフェラー邸で開かれた米日欧三極委員会(トライラテラル)創設会議からスタートしたと見ることもできる。
なぜなら、この時点で意図的か否かはともかく、いったん欧米諸国の仲間として日本を引き入れたことが、のちの合法的な横領の成功へと繋がったからである。
遅くとも、この三極委員会メンバーで埋め尽くされたカーター政権の末期、つまり80年代に入る頃には、国際銀行家たちによる「日本刈り取りプラン」はすでに完成していたようだ。
発動は次の日米新政権である。81年、ロナルド・レーガンが大統領に、そして82年、日本側のカウンターパートとして中曽根康弘が総理大臣に就任する。
中曽根氏は若手政治家時代からロックフェラーやキッシンジャーと旧知の間柄だった。
また、レーガン政権にはあるキーマンがいた。
それがメリル・リンチ元CEOのドナルド・リーガンである。
レーガンが全幅の信頼を置いたウォール街の代弁者であり、財務長官に就任するや法人税引き下げなどの“レーガノミックス”を推進した。
レーガン政権は発足早々、日本に対して「安保タダ乗り」や「貿易不均衡」などを盛んに言い立て、貿易制裁をチラつかせては、市場開放を強く要求した。
こういった外圧で設置されたのが83年の「日米円ドル委員会」である。
ところが、実態は両国の「協議」とはほど遠く、日本側が直ちに飲むべき要求項目がすでに出来上がっていたという。
端的にいえば、それは日本の金融市場の開放を強く迫るものだった。
協議は異例のスピードで決着し、様々な規制の緩和、外資に対する参入障壁の撤廃、円の国際化、先物・オフショア市場の創設などが約束された。
これにより外資上陸の準備が整えられた。
今にして思えば用意周到な罠だったわけだが、当時は金融や経済の「国際化」という美名に置き換えられた。
そして、中曽根総理もまた経済政策の目玉として「規制緩和」と「民営化」を掲げ始めた。
85年9月、先進五カ国蔵相・中央銀行総裁会議がニューヨークのプラザホテルで開催された。
これにより円は200%もの円高へと向かう。
日本のドル国富が目減りし、日本企業の輸出力が弱体化する一方、ロスチャイルドからカリブ海のタックスヘイブンの資金運用を任されたジョージ・ソロスは、猛烈な円買いドル売りで空前の儲けを手にした。
以後、ソロスは「ロスチャイルドの鉄砲玉」として国家主導の金融システムを攻撃し続ける。
一つの目的は、各国をグローバルな経済連携へと向かわせるためだ。
86年には米証券会社が東京証券取引所の会員になり、以来、外資系証券が続々と日本の金融市場に上陸を開始した。
87年、大蔵省がNTTの株式を市場に売りに出した。
日本電信電話公社の民営化は、国鉄のそれと並び、中曽根内閣の民営化政策の目玉である。
いわば「お上推奨」の株取引だった。
たちまち「NTT株で何百万円儲かった」などの話が巷間に溢れ、普通のサラリーマンや主婦の間にも投機熱が高まった。
88年、国際金融システムの安定化を名目に、国際取引をする銀行の自己資本比率を8%以上とする「バーゼル合意」(いわゆるBIS規制)が決められる。
奇妙なことに、邦銀には自己資本に一定の「株の含み益」を組み込む会計が認められ、これが自己資本率の低い邦銀をして、ますます株上昇への依存に走らせた。
しかも、やや先走るが、バブル崩壊後は、今度は「93年から規制適用」のルールが不良債権問題悪化や「貸し渋り・貸し剥がし」の要因となり、日本経済をさらにどん底へと追い込んでいった。
・バブル経済はこうして生まれ、急激に崩壊させられた
ここで日銀の金利政策を振り返ってみよう。
1980年3月、公定歩合は9%だった。
つまり、当時は銀行に100万円を預けると、1年後には109万円になるという、羨ましい時代だったのだ。
ただ、この金利は毎年のように引き下げられ、87年2月には、80年代を通して底となる2.5%をつけた。
今日のゼロ金利時代からすると、それでも預金に殺到したくなるほどの“高”金利だが、当時としてはこれが「戦後最低金利」だった。
とくに80年代後半の利下げには、プラザ合意による急激な円高も関係していた。
当時「円高不況・国内空洞化」が懸念され、大蔵省も日銀に利下げを要請したのだ。
一方で、通貨供給量は80年代後半から年間10%(だいたい数十兆円)レベルで増やされた。
当時は国債の発行高も少なく、金融も今ほどグローバル化していなかった。
その結果、膨大な低利の資金の大半が日本国内の債権と土地に向かった。
当時、株と土地を買うと、誰でも儲かった。
銀行は普通のサラリーマンや公務員、主婦にまで融資した。
「NTTの株で数千万円儲かった」とか、「土地の転売だけで数億円儲かった」などの話が、誰の周辺にも転がるようになった。
銀座のクラブでは毎晩札束が飛び交い、証券会社の20代社員が数百万円ものボーナスを貰った。高級ブランドの購入や海外旅行が当たり前になり、日本全体が熱に浮かされたようにバブル経済に踊った。
一方、まさにこの頃、金融自由化の下、外資が続々と日本に上陸していた。
この「戦後最低金利」は89年の半ばまで続けられた。
だから、80年代の初期から見ていくと、「80年代を通してずっと金融緩和・景気刺激策が行われた」とも言える。
ところがである。
やがて、あまりの土地の高騰などが批判されるようになる。
それが本当の理由か否かは不明だが、まさにバブル経済が膨れ上がったところで、日銀は、今度は一転して金融引き締め政策へと大転換した。
しかも、89年半ばから、わずか1年3カ月という短期間で、2.5%から6%へという、異常な引き上げを実施した。
これだけ短期間での急激な利上げは、今にして思えば暴挙としか言いようのない政策だった。
住宅ローンなどで多額の借金をしている人は、金利が上昇すると、どれほど返済に苦労するか、よくご存知だろう。
当時、急激な金利の上昇を受け、法人・個人は新規の借り入れを手控えた。
また、返済額の急上昇により、多くの投資家が「手仕舞い」を強いられた。
その「損切り」の売りが、また売り呼ぶという負のスパイラルが始まった。
しかも、日銀は、90年代に入るや、やはりそれまでとは一転して、今度はマネーサプライのほうも急減させた。
元栓そのものが絞られたので、銀行も融資を減らさざるをえなくなった。
つまり、金利と通貨供給量の両面で、日本経済は急ブレーキを踏んだのだ。
さらに、その少し前に、ソロモンブラザーズ、モルンガン・スタンレー、ゴールドマン・サックスなどが内外で大量に売り捌いていた数十本ものプットワラント商品が、日経株価に対するレバの効いた空前の売り圧力として作用し始めた。
東証株式市場は雪崩を打ったように崩壊し始め、市場関係者はパニックに陥った。
著名な株価評論家や相場師までが大損し、誰もが「市場で何が起こっているのか分からない」と首を傾げた。
日銀と外資だけでなく、大蔵省までが軌を一にして急ブレーキを踏んだ。
それが90年3月に実施された「不動産総量規制」という金融機関への行政指導である。
簡単にいえば「不動産向けの融資を減らせ」という内容だが、当時、大蔵省銀行局長の通達といえば命令と同じである。
不動産価格の高騰を抑えるのが目的だったが、銀行から融資を受けて不動産に投資していた事業家にしてみれば、いきなり元栓を締められたのと同じだった。
このように、主として「日銀の金融政策」「外資による空売りの仕掛け」「大蔵省の銀行指導」という三つの要因によって、バブル経済は突然崩壊させられたのである。
結果として、日本に金融市場の開放をねじ込んだ当事者たち――ウォール街とその手先――に史上空前ともいえる所得移転がもたらされたのであった。
~~~
日本経済を“丸ごと刈り取った”ユダヤの陰謀とは? バブル経済崩壊、その巧妙な手口を完全暴露!
exciteニュース 2016年11月8日
■その時 日本の首相は?!
中曽根康弘「プラザ合意」
時事ドットコムニュース
~~~
中曽根康弘(なかそね・やすひろ、1982年11月27日~87年11月6日)
プラザ合意を受けて、急激な円高に伴う不況やデフレが懸念された。
日銀は当初、短期金利を高めに誘導したが、翌年からは公定歩合を引き下げている。
また、中曽根内閣は内需拡大の国際公約に基づき公共事業を拡大。
こうした低金利・歳出拡大が「バブル経済」を招いたとされている。
歴史の節目である「プラザ合意」に加え、任期中には、東京ディズニーランド開園(83年)、グリコ・森永事件(84年、85年)、日本航空123便墜落事故(85年8月)などがあった。
~~~
その時 日本の首相は?!
中曽根康弘「プラザ合意」
時事ドットコムニュース
■ロッキード事件の“もみ消し”をアメリカ政府に頼んだ中曽根康弘
~自民党幹事長はなぜ総理を裏切ったのか~
週刊文春(2021/02/06)
■中曽根氏、大型間接税「やらない」と明言、翌年に売上税(消費税)法案
毎日新聞 2019/11/29
■プラザ合意!Plaza 凄まじい為替レート 日本経済 円安から円高へ・・・ ニューヨークでのプラザ合意!紙芝居イラスト解説
YouTube 横浜ザイバツの株式投資法 2020/02/23
■「日本経済は植民地化される」
~TPPに隠されたアメリカの卑劣な手口~
・悪魔のTPP、アメリカの真の狙いは何か
・そして、日本の富は略奪される
ダイヤモンドオンライン 2014.2.3 菊池英博:日本金融財政研究所所長
■GHQによる戦後日本の経済民主化は「経済弱体化」だった
PHPオンライン衆知 2021年04月22日
田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授)
■アベノミクスのワナ〜「規制緩和」「構造改革」は、米国による日本弱体化戦略の一環?
Business Journal 2013.08.08
■森永卓郎が分析~なぜ日本だけが経済成長できないのか
「ニッポン放送 NEWS ONLINE」2018-12-19「垣花正 あなたとハッピー!」
■プラザ合意から33年、1985年は何だったのか
失われた20年から抜け出せていない原因は
「当時のアメリカにとって、脅威だったのは、中国ではなく、日本だった」
「アメリカは不満を持ち、対日批判を強めていた」
東洋経済 2018/02/27