小田尚稔「是でいいのだ」批評

 2021年3月15日、三鷹SCOOLにて演劇「是でいいのだ」19時の回を観劇した。この演劇は批評の言葉を待っていると感じたので、文章を書く。
「是でいいのだ」を観劇せずにこの文章を読む人がいる可能性を考慮し、観劇していない人にも「是でいいのだ」の特徴を伝えられるようになるべく丁寧に文章を書くことを心掛ける。観劇した人には冗長な部分も多いと思うがご勘弁ください。
 「是でいいのだ」は2011年3月11日の震災の日に東京にいた5人の人物のその日とその後の話である。チラシには、おそらく小田尚稔本人によって次のように書かれている。(以下抜粋)

「「是でいいのだ」は、イマヌエル・カント『道徳形而上学の基礎づけ』、V・E・フランクル『それでも人生にイエスと言う』という著作を題材にしている作品でもあります。
 本作では、二〇一二年(原文ママ)三月の東京での出来事とカントやフランクルの思索との接続が狙いでもあります。
 登場人物を通して語られる震災直後の東京の風景。
 そして、このような逆境や、自らの人生の境遇や環境を受け入れて前に進むことをこの物語で描いています。」

 「是でいいのだ」は2011年3月11日から話が始まる。5人の登場人物がまずそれぞれ一人ずつ舞台に現れる。自分がどんな人間であるかを一人語りした後に舞台から退場し、次の人物が現れる。話が進むにつれて、登場人物たちはお互いに関わりを持ったり、持たなかったりする。
 そんな中で、この5人の動き方とは全く異なった形で常に舞台に居座り続ける人物が1人いる。チラシでは出演の欄には5人の名前しかないのに、この演劇の登場人物は全部で6人だ。しかもこの1人がこの演劇にとって非常に重要な役割を担っている。この登場人物がどのように重要な役割なのかを明らかにすることから批評を始めよう。
 そのためにまず、6人がどのような役なのかを簡単に短くまとめる。

① 一浪一留の女子大学生。就活中だがうまくいっていない様子。新宿のマックでエントリーシートを書いている時に被災。東北のどこかに実家があると思われる。国分寺で一人暮らし。リクルートスーツとヒールのまま新宿から徒歩で帰宅しようとする。
② 大学五年目の男子大学生。東京で一人暮らし。(劇中でどこに住んでいるか具体的に言っていたように思うが、忘れてしまった。)映画やお笑いが好きらしい。つげ義春のねじ式のTシャツを着ている。就活中だがうまくいっていない。
③ 結婚していたが夫とは現在別居中の女性。初登場のシーンでは離婚届を書いている。埼玉の友人の家に居候している。東京にいるときに被災し、帰宅難民になる。帰宅難民を装った②の男子大学生にナンパされる。
④ ③の女性の夫。自分から離婚を迫ったが、寂しくなって復縁を持ちかける。
⑤ 新卒1年目の女性。大学時代に授業でフランクル『それでも人生にイエスと言う』を読んでいた。震災前か震災後か時期は明らかでないが、②の男子大学生と遊んだことがある。
⑥ 昆虫博士。常に舞台にいる。白衣を着ている。虫かごや虫取り網を携えている場合もある。何者なのか分からない存在だが、他の登場人物に「あなたは誰なんですか?」と聞かれたときに「昆虫博士です。」と自己紹介する。

「是でいいのだ」を見ずにこの文章を読んでいる人がいるとしたら、「⑥昆虫博士」を見て頭に?マークが浮かぶのではないだろうか。私も演劇を見ている最中、とくに序盤はこの人物がなんなのか分からず?マークが頭に浮かんでいた。

この昆虫博士という役が先述した他とは全く異なった動き方をする役である。他の役者は自分の出番ではない時は舞台からはけるのに対し、昆虫博士は劇の最初から常に舞台に居続ける。頻繁に劇に干渉してくるが、とはいえ黙って座って見ているだけの時間の方が長い。登場人物に話しかけ会話したりもするが、他の登場人物からは全く見えていないことになっている場面も多い。
また、例えば男子大学生が一人暮らししている部屋の場面で声をかけてくるなど、現実にはあり得ない形で現れる。他の5人は現実世界の東京で生活しているのに対し、昆虫博士はどこでもない場所に存在している。そして現実世界に干渉してくる場合はルール無用の神出鬼没である。人間の物理的な存在の仕方のルールや境界を「越える」という意味で字義通り、シュールな存在である。
昆虫博士は基本的にずっとコメディタッチで演出されている。そのことから私は最初、観客が2時間を超える演劇に飽きないため・飽きてきた頃にもう一度舞台へ注目させるために用意された役だと思っていた。実際そのような働き方もしている。ストーリー上とくに意味はないと思われるアクションシーンを昆虫博士が請け負い、一人で舞台上を転げまわったりしていた。
演劇には、とくに古典的な演劇の中には「道化」という文脈がある。インターネットで読める論文で探したところ、「道化」を簡潔に説明した文章を見つけた。石塚倫子「シェイクスピア劇の宮廷道化」から次に引用する。


「シェイクスピア劇における宮廷道化(court fool)は劇の根幹にかかわる重要な役割を果たしていることはしばしば指摘されてきた.もともと宮廷道化は中世以来,王侯貴族の館に仕える実在のおどけ者である.かれらは階級としては最も蔑まれる周縁的地位にありながら,権力者の身近に侍り,中心内部に入り込むことを許された特殊な身分の者であった.その役割は,第一に主人を笑わせたり,駄洒落や言葉遊びなどの他愛ない会話の話し相手となったり,楽器や歌で楽しませることであった.そのため,道化には笑いの対象となる生まれつきの愚者(natural foo1)もいたが,ここで特に注目したいのはもうひとつのタイプの道化,つまり愚者を装いながら極めて鋭い洞察で人々を椰楡し笑わせる知恵者の道化(wise fool)である.この賢い道化は,余興的な笑いの提供に加え,時には権力の座にある主人の愚をも映し出してしまう両義的な機能を果たしていた.そしてこれこそがシェイクスピアが劇世界に最大限に道化を活用した所以でもあろう.」


 
私は演劇には詳しくないのだが、たまたまこのことを知っていたため「是でいいのだ」は道化、それも知恵物の道化の方を現代演劇としてアップデートした形で使っているのだろうと思いながら見ていた。
 その想像は当たっていたといえようか。ただのコメディ・リリーフとして昆虫博士のことを見ていると、ある瞬間に昆虫博士の役割がそれだけではないことがいきなり分かる。ただの愚者のようにも見えていた人物が実は知恵者の道化だったことが分かる瞬間がある。男子大学生がポケットから虫眼鏡を取りだすシーンがその瞬間である。

「是でいいのだ」未見の人のためにも、順を追って丁寧に説明しよう。
先述した登場人物一覧の②の男子大学生は「トリュフォーとかゴダールが好き」と言ったり、つげ義春のねじ式Tシャツを着ていたり、カントの文庫本を部屋に置いていてたまに読み返したりしている大学生である。
しかし、初登場時の独白で現在は起きている時間のほとんどをyoutubeでお笑いや大食いを見ることに費やす生活を送っているということが観客には分かっている。
マイナビやリクナビに登録して就活をしているようだが、うまくいってそうな気配はない。そんな日々のさなか震災がきて、テレビで津波の映像を見る。そのときにこの男子大学生は世界の終わりを感じたと言い、「このまま彼女とか出来ずに恋愛とかしたことがないまま人生終わるのかな」というような旨のセリフを言う。
そう思ったことが契機となったのだろう。わざわざ部屋から街へ出ていき、帰宅難民の女性に声をかけ、自分も帰宅難民のフリをしてこの女性をナンパする。そこでの会話のシーンで、この男子大学生がいわゆる「コミュ障」であることが観客に分かる。「トリュフォーとかゴダールとかが好きで~」というのは、ここで聞かれてもいないのに初対面の相手に勝手に話し始めるセリフである。会話を成立させようという気持ちが希薄で、自分の興味のあることを一方的に喋ってしまうというキャラクター造形がなされている。この男子大学生のセリフや演技は、たいていの場合滑稽で観客の笑いを誘っていた。

個人的な話をする。私は漫画と映画が好きだ。漫画では特につげ義春とかが好きで、映画ではとくにトリュフォーとかゴダールとかが好きだ。カントは大学の哲学史の授業を履修したときに2コマ使って行われた講義を受けただけだが、光文社古典新訳文庫のカント『純粋理性批判』『実践理性批判』『永遠平和のために/啓蒙とは何か』を買って、読み通せずに挫折したり、拾い読みしたりしている。
単位がとれなくて留年したり、就活が上手くいかなくて留年したりしたので大学は学部に6年通った。だからこの男子大学生の役には、共感はしないけれども自分と共通している部分は多く、なんとなく自分にも思い当たる節がある。そして、自分のような人間やこの男子大学生の役のような人間が「サブカル」や「インテリ」などという言葉で揶揄を込めて呼ばれることがあることも知っている。
そんな自分の人生経験からすると、まだあまり仲が良くなく、そしてほとんど映画を見たことがない女性と一緒にTSUTAYAに行って、オススメの映画を聞かれ、自分の好みと人に勧めるということとの間で悩んだ結果、ウディ・アレンの「アニー・ホール」や「マンハッタン」を勧めるシーンは結構リアリティがあって面白かった。そのリアルさと滑稽さのバランスが上手いと思った。
このように小田尚稔は上手いバランスでエピソードを作ることが出来るにも関わらず、その他のシーンでは、この男子大学生の役が昆虫博士と共にコメディ・リリーフを担っていることもあってか、キャラクターとして滑稽さが際立つようにカリカチュアされた演出がされていることが多かった。
例えば、デートのときにワックスをつけてみるが、ワックスのつけ方を知らないのでめちゃくちゃにつけてしまったり、香水のように使ってしまうシーンがそうである。これは演出としては滑稽さを誇張したものであったが、しかし「ワックスのつけ方を知らない」という事それ自体は、きっと多くの人に覚えがあることである。他にも、「異性と話すときに距離感がわからない」「うまく喋れなくて言いよどんでしまう」なども多くの人にとって覚えがあることだろう。それらがどんなに誇張され面白おかしく演じられていても、観客が「一体なんなんだこれは?」となることはない。
それに対して、この男子大学生が虫メガネを取り出すシーンのユーモアは、これまでに挙げたユーモアとは別種のものである。

この男子大学生には映画好き、漫画好き、お笑い好き、などのキャラクターの他に「虫が好きでいつも虫メガネを持ち歩いている」というキャラクターも与えられている。そして虫を見つけると、人との会話の途中でも我を忘れてその虫に夢中になってしまう。
私は最初、これもただのユーモアの一つだと思っていたのだが、しかし違和感も抱いていた。その理由は(虫が好きな人には本当に申し訳ないのだが)そんな奴はいないからである。子供の頃なら分かるが二十歳を越えた青年が、いくら虫が大好きとはいえ、デート中の会話中でも虫を見つけてしまったが最後、我を忘れて持参の虫メガネで虫の観察や採集を始めてしまうというのは「映画好きや漫画好きをモテないキャラクターとして描きたいからといって、いくらなんでもそんな奴いないぞ!」と言いたくなる。
しかし、そんなことを言い出したら「ワックスを手首に塗りたくって香水のように使う」人だって「そんな奴はいない」。この虫への偏愛というキャラクターも誇張されたユーモアの一種とみるべきなのかどうかと考えていると、劇が中盤を過ぎたあたりでもっとあからさまに変なシーンが出現する。

男子大学生が虫メガネを覗き込みながら誰かに向かって(実際には何もない空間に向かって)「ジローラモさんですか!?ジローラモさんですよね!?」と話しかけるシーンである。そして「あっ、なんだ… 蟻か…」と言う。(実際には、虫の正式名称を言っているのだが、なんて言っていたか忘れてしまった。クロオオアリだったか?)
このシーンで遂に「是でいいのだ」に出てくる虫に関するユーモアは他の諸々のユーモアとは別種のものであることが完全に明らかになる。どんなに虫が好きであろうとも、虫とジローラモを見間違えたり、ジローラモだと思い込んでいるのに虫メガネで覗き込みながら人間に話しかけたりするなんていうことは、これはもう絶対に「そんな奴はいない!」からだ。

途中自分の話などで脱線したせいで長くなってしまったが、ここまで書いてやっと「是でいいのだ」における昆虫博士や虫の役割を考察することが出来る。
先に明らかにしておいたように、というよりも「是でいいのだ」を見た人なら誰でもわかるように、昆虫博士とは普通の人間ではない存在で、いきなり現れたり意味不明なことを語りかけたり演じたりしている。
この昆虫博士が普通の人間ではないとするならば、なにを演じようとしているのだろうか。
演劇の内外(外というのはチラシやサイト)で何度もカントについて言及されていることから、道徳や倫理といったものを虫で表し、道徳や倫理について人間よりも何かを知っている存在として昆虫博士を存在させたのだと私は考えた。

そして、男子大学生は虫メガネを持っていることによって他の登場人物とは区別され、特権的に道徳や倫理といったものに触れさせられている。それは、他の登場人物たちは昆虫博士とは会話をするくらいの交流しかないのに対し、この男子大学生には昆虫博士と一緒に昆虫採集をするシーンが用意されていることからも分かる。しかもこのシーンは男子大学生と昆虫博士が肩を組むことで終わるのだ。これらのエピソードの羅列から、この演劇の中で昆虫博士が特権的な扱いを受けていることは前提なうえで、男子大学生も特権的な扱いを受けていることに納得してもらえるだろう。このように考えるとこの二人が「是でいいのだ」のコメディ・パートを主に担っていたことにも必然性があったのだろう。

思い返してみれば、男子大学生の初登場のシーンでは昆虫博士にいきなり「食え」と言われてバナナを投げ渡されるシーンがあった。男子大学生はこのバナナを食べるが、「美味しくないんだ」と言う。このシーンがあるのは劇の序盤であり、昆虫博士はまだ昆虫博士と名乗っておらず、この人物が誰なのか何なのか分からない状態で演じられるエピソードだが、後から考えてみると非常に重要なシーンであることが分かる。
道徳や倫理についての知恵者である昆虫博士が「食え」と言って渡してきたものが男子大学生にとっては美味しくない。これは当たり前といえば当たり前かもしれない。例えばカントを読むことは、私を含めた多くの人間にとって易しいことではないし、そしてなによりカントを食べて生きていけるわけではない。

昆虫博士は、この「美味しくないバナナ」に似たことを他の登場人物にも行う。⑤の女性に手渡すゴキブリがそれである。女性が一人語りしていると、昆虫博士が近寄ってきて、おもむろに何かを手渡す。女性はそれを受け取るが、それがゴキブリだということが分かり、「キャッ」と言って手放す。そしてこれと全く同じことが劇の終盤でもう一度繰り返される。女性は自分の手の中にあるのかやっぱりゴキブリであることが分かると、手放した後に「なんで2回もゴキブリ」と言って嘆く。
「是でいいのだ」の中で虫が道徳や倫理を象徴するものであるとするならば、このシーンもやはり非常に重要な意味を持つ。道徳や倫理といったものは、人間にとってはゴキブリのようなものかもしれない。人によっては嫌悪感を抱くものですらあるかもしれない。こういったことは充分有り得ることだと私には思える。

ゴダールは「女と男のいる舗道」の中で「幸福が楽しいものであるとは限らない」という言葉をマックス・オフュルスから引用した。
カフカはマックス・ブロートと話している時に「ああ、希望は充分にある、無限に多くの希望がある。―ただわれわれにとって、ではないんだ。」と言った。
フロイトは「文化のなかの居心地悪さ」の中で「天地創造の計画の中に人間の幸福は含まれていない」と書いた。

以上、「道徳や倫理といったものが目の前に現れても、人間はそれをゴキブリのようなものだと思ってしまう可能性もある」ということを違う言葉で言っていると思われる先人たちの言葉を引用した。
人間はそうと知らぬまま真理や倫理といったものに触れている可能性はある。また、そのことに気付く可能性もある。しかし、それは常に勘違いである可能性もある。もしかしたらその可能性の方が高いかもしれない。
「是でいいのだ」において男子大学生がジローラモと蟻を見間違えるシーンは、このことをコメディタッチで演じていたのではないか。
そしてもしそうならば、このシーンはコメディタッチで演出されてはいるが、(それゆえ余計に)非常に皮肉な、残酷ともいってよいものである。道徳や倫理といったものを目の前にしているのに、ジローラモ(イタリア人のタレントのことか?)に勘違いし嬉しそうに話しかけるが、蟻だと分かりガッカリするという…
実際の私達もジローラモと蟻を見間違えるくらいの、意味の分からない間違いや勘違いを道徳や倫理に対して行っている可能性は常にあるのだ。

と、ここまで私が書いたものを読んで、「だから何?」と思った人も多いのではないだろうか。ゴダール、カフカ、フロイトなどの個人名が羅列された辺りで「だから何?」と思った人が多いであろうことが想像につく。というのも私が実生活の中でこういう個人名や固有名詞を出して何かを語ろうとすると、虎の威を借る狐のように思われるのか、スノッブなお遊びだと思われるのか、嫌がられることが多いことは経験上知っているからだ。
そして映画や漫画や本が好きである私自身も、自分に対して、そして芸術や思想哲学全般に対して「だから何?」とは常に思っているのである。
そしてこのことを強く思う時は、災害などに襲われたときである。カントを読んでいようがいまいが地震はくる。(これを書いている2021年3月20日にも大きな地震がまた宮城で起こった。東京も揺れた。最大震度は5強でマグニチュードは7.2らしい。)
哲学や文学や芸術は災害を防げないし、災害で失ったものを取り戻すことも出来ない。2011年、哲学や文学や芸術を愛好していた人たちは誰もが「こんなものになんの意味があるのだろう?」と多かれ少なかれ考えたことだろう。
この「だから何?」「こんなものになんの意味があるのだろう?」という感覚は「是でいいのだ」の中でもセリフにこそされていなかったけれども、描かれていたように思う。
映画好きだった筈の男子大学生が、うまくいかない就活などを経て疲れてしまったのか、起きている時間のほとんどをyoutubeでお笑いや大食いを見て過ごしている。そこに震災がきて、自分の送ってきた生活が急に虚しいものに思えてしまったのかもしれない。もう映画とかを見ることをやめて生きていくことを決意するまでを描いた演劇だったのではないか。
もしかしたらこれは誤読かもしれない。私があまりにも自分の人生に引き寄せてこの男子大学生のことを捉えすぎてしまっていることは自分でも気づいている。
私はトリュフォーとかゴダールとかが好きで、映画を年間400本くらい見る大学生活を送った。つげ義春の模写をして漫画を描いたりした。大学5年生の時は私も就活が上手くいかなかった。大学に6年通い、今年卒業が決まって就職先もなんとか見つかった。しかし、この会社はなんと2021年3月21日から仕事が始まる。この文章を書いている今現在は20日であり、厳密にいえばもう日付を越えているので21日である。この文章を早く書き終えて私は一刻も早く寝なくてはならない。そして寝て起きたら、今日からは週5で働く会社員である。もう今までのように映画を見続ける生活を送ることは出来ないだろう。いつか読もうと思って積読しているカントの文庫もいつまでも読めないかもしれない。しかし、これでいいんだと思っている自分がいることも確かだ。

「これでいいんだ」
そう。演劇「是でいいのだ」で男子大学生が最後に言うセリフは「これでいいんだ」である。私の耳が正しければ役者は最後のセリフを「これでいいんだ」と発話していた。
この大学生がどのような経緯でこのセリフを言うことになるのか説明しよう。
この男子大学生はナンパした女性とその後も微妙に交友は続いていて、好意を抱いているようだ。ある日好意を伝えようとするが、それは実らず女性から「もう会わない」と言われる。
そしてフラれた後、急に虫メガネを覗き込みながら誰かに向かって(実際にはなにもない空間に向かって)「もえのあずきさんですよね!?」と話しかける。これは大食いタレントのもえのあずき(通称もえあず)のことだと思われる。
 ここでの役者の振る舞いは完全にコメディであり、観客は笑っていた。ジローラモの前例があるぶん、「またやってるよ」という面白みもあった。
しかしジローラモの時は蟻と見間違えていたのに対して、今回は本当にもえのあずきと出会っていて、もえのあずきを虫メガネで見ていたことがセリフから分かる。つまりこのシーンは、男子大学生がもはや虫メガネを覗き込んでも虫を見つけることは出来なくなったことを意味する。
そしてもえのあずきに「いつも見てます!」と伝えたあと、また一人語りに戻り、「これでいいんだ」と言って舞台から去る。その後にはもうこの男子大学生は舞台には戻ってこない。
このセリフを聞くと反射的に戯曲のタイトルである「是でいいのだ」を否が応でも想起させられる。しかし、「これでいいんだ」と「是でいいのだ」は違う。この違いが持つ意味は言葉の響きの違い以上に大きい。

 「これでいいんだ」という言葉は、日本語話者としての私の感覚での話になってしまうが、自分への諦めや慰めであり、この言葉は自分の過去に作用している。
演劇「是でいいのだ」のチラシには「自らの人生の境遇や環境を受け入れて前に進むことをこの物語で描いています。」と書いてあるが、「これでいいんだ」と言って自分を慰めているだけでは人間はその場にとどまってしまう。この言葉で自分の人生の境遇や環境を受け入れることは出来ても前に進むことは出来ない。もちろん、この男子大学生もいずれはなんらかの形で前に進んでいくのだろうが、少なくともこの演劇の中では「これでいいんだ」と言って終わりなのであり、彼の人生が前に進む瞬間は描かれない。ここが演劇「是でいいのだ」の特徴である。
人間は「これでいいんだ」と言っているだけでは前に進むことは出来ない。それでも人生にイエスと言うためには、「イエスと言う」という能動的な行動が必要なのだ。
「是でいいのだ」の中で男子大学生はその状態まで描かれなかったのに対し、前へ進む状態まで描かれた人物もいる。就活中でリクルートスーツとヒールのまま徒歩帰宅を試みた女子大学生がそうである。
この文章の序盤で紹介したあらすじで、「登場人物たちは関わりを持ったり持たなかったりする」と書いたが、劇中最後まで他の登場人物と関わりを持たないのが唯一この女子大学生である。そして、他の登場人物たちは震災当日とその後の日々を演じるのに対し、この女子大学生は震災当日しか演じない。つまり一つの演劇の中に二つのストーリーがあることが分かる。

お互いに関わりあう側の4人たちは皆、イメージソングのようなものが与えられている。
②の男子大学生はカラオケのシーンで相対性理論のテレ東を歌い、③の女性は同じカラオケのシーンでドリカムの決戦は金曜日を歌う。④の男性は岡村靖幸のカルアミルクの歌詞に自分を重ね合わせて復縁を迫るし、⑤の女性はEARTH,WIND & FIREが流れているディスコへ行く。
ちなみに2011年当時からみても微妙に古い楽曲たちに彩られたこの演劇の中で唯一、当時のリアルタイムの曲を歌っていたのは男子大学生だけだ。しかし、その彼も最終的にはドリカムの決戦は金曜日という懐メロを歌いたがる。
2011年の前後というのは日本からヒットチャートの音楽を聞くという文化がなくなった時代だったように思える。私は2011年には中学2年生だったが、自分の中学の3年間はAKB48のグループが爆発的な人気を博していた。しかし皆さんご存知のように、AKBグループは握手券商法によってヒットチャートをハックした。嫌な言い方をすれば破壊したとも言える。そもそもCD全体が売れなくなってきた時代に苦肉の策として生み出された商法なのだろうし、そのこと自体に今更文句があるわけではないのだが、これ以降「時代の曲」や「世代の曲」というものはなくなったように私には思える。それは「ヒットチャートは作られたものである」ということが子供にも分かってしまうようになったからであり、「いい曲が売れている」という感覚や「皆が聞いている曲が売れている」という感覚がなくなったからだろう。「いい曲が売れている」ということを子どもすら信じなくなった時代の到来である。そんな時代の中で男子大学生がカラオケで歌うのは相対性理論のテレ東である。
2011年、中学生だった私は相対性理論のことを知らなかったので、このバンドが当時どのような需要のされ方をしていたのか詳しくは分からないが、Wikipediaによるとテレ東収録のアルバム『ハイファイ新書』はインディーズ・オリコンの週間1位だったらしい。まだ音楽のヒットチャートを微妙に信じているサブカル層(?)の男子大学生にとっては、なにか特別な存在のバンドだったのではないかと想像する。
しかし、カラオケで相対性理論を歌ったあと、一緒に来た女性に「知っていますか?」と聞いても、当たり前のように彼女は知らない。そして少し年上だと思われる彼女は、ドリカムの決戦は金曜日を歌う。
ドリカムはCDが最も売れていた90年代のスターであり、「時代の曲」や「世代の曲」があったであろう時代にヒット曲を持っている。
そして男子大学生が2回目にカラオケに誘うシーンでは、「ドリカムを練習してきました」と言う。このエピソードは、自分の趣味嗜好ばかりを一方的に喋っていた青年が相手の好みに歩み寄ろうとするという、微笑ましいシーンでもあるが、自分の世代の曲を信じることを辞めて懐メロに埋もれていくシーンでもあり悲しくもある。

と、また話が脱線してしまったが、私が書きたかったことは、関わりを持つ側の4人はイメージソングに彩られて、恋愛したり遊んだりが描かれるということだ。
それに対して、この4人とは関りを持たない女子大学生はイメージソングを与えられていない。この女子大学生が出ている場面でインストの曲が流れる場面はあるが、それは舞台効果としての音楽であり、彼女がその音楽になにか言及したり自ら歌ったりすることはない。
「是でいいのだ」は最初と最後のどちらもこの女子大学生が舞台に出る。そして、この女子大学生が前を見つめることで演劇は終わる。


この女子大生の役には震災当日に夜道を一人で歩き続けるというストーリー上の孤独があるだけでなく、他の登場人物とは関われずに最後まで一人で演技をやり続けなければならないという演劇としての孤独がある。
この役こそが、小田尚稔が描きたかった「自らの人生の境遇や環境を受け入れて前に進むこと」を演じている役なのではないか。「これでいいんだ」ではなく、「是でいいのだ」にまで劇中でたどりつけた人物は唯一この役だけだったと私には思われる。
この演劇を見て、前向きな気持ちになったりポジティブな何かを受け取ることは間違いではないし、もちろん私はそのことを否定するわけではないが、同時になにか物凄く虚しいものが背後に隠されていることも事実である。人との関わりあいや文化的なふるまいや遊びの不毛さや虚しさといったものがこの演劇では暴かれてしまっているからだ。小田尚稔がこのことをどれほど意図して作ったのかは分からない。文化的な営為には本質的にそのようなものが備わっているがゆえに、小田尚稔が意図した以上に私がそう受け取っているのかもしれない。

災害の後の文学というと、やはりどうしてもヴォルテール『カンディード』を想起する。この小説は18世紀フランスの代表的な啓蒙主義者ヴォルテールがリスボンの大地震を受けて書いた小説である。当時のリスボンは宗教的に非常に敬虔な土地であったが、大地震がきて罪のない人々がたくさん死んだ。それを受けてヴォルテールはこの小説を書いたと言われている。詳しい内容や作品背景についてはWikipediaその他で確認して頂きたいが、めちゃくちゃ大雑把にいうと「うだうだ言ってないで生きるために畑を耕そうぜ!」と言って終わる小説である。これは人間の生き方として一つの正しい道を示していると私は思う。
しかし、2011年のことを思い出すと、地震と津波のあと原発が大変なことになり、農業は壊滅的な被害を受けた。実際の被害もあるし、風評被害も大きかった。日本国内に「福島の食べ物は今はちょっと…」という空気は確実にあったし、海外には「日本のモノは今はちょっと…」という空気が確実にあっただろう。
つまり2011年の震災の後に「うだうだ言ってないで畑を耕そうぜ!」と、なんの不安も持たずに言えた人は一人もいなかったのだ。そういう意味で、この一面においては、現代の私達はヴォルテールの時代よりも悪い時代になってしまったと言えるのかもしれない。ヴォルテールが用意した答えでは解決できない問題に直面してしまったし、そして今なお直面し続けている。
「是でいいのだ」は女子大学生が前を向いて終わったけれども、震災というものへの対峙の仕方として、精神的なことは置いておいて、なんらかの解決を示したわけではなかった。しかし、このなんの解決も示せない態度は、同じ時代を共有した者としてリアリティのある感覚である。どうやってこの話を着地させるのだろうと思って見ていたのだが、この話を終わらせるにはそれしかなかっただろうなという、私にとっては腑に落ちるものであった。「是でいいのだ」の初演は2016年らしいが、5年前からやっているのなら尚更そうだったのだろう。

「是でいいのだ」を批評するといってこの文章を始めた。しかし私は「是でいいのだ」を名作や傑作だと言うことは出来ない。
その最も大きな理由は、私がこれまでの人生でほとんど演劇を鑑賞したことがないことによる。この理由によって「是でいいのだ」を相対的な評価をすることが不可能であること、そして「相対的な評価」なんていうものを考えることが馬鹿らしくなるほどの感動や胸に迫るものを、個人的には感じなかったことによる。
正直にいえば、私はこの演劇を楽しめた訳ではなかった。不自然なリズムで語られる独り言のようなセリフ。笑いを誘うコントのようなシーンやコメディのような演技/演出。これらによって作り出されるこの演劇の「ノリ」にのれなかった。これは私の個人的な好みであるし、ほとんど演劇を見たことがない人間の演劇自体に対する拒否反応のようなものが大きいのかもしれない。
とはいえ、好みの問題を置いておいても演出はもっと洗練される余地があるのではないか。例えば、①の女子大学生が舞台に出ている時には音楽は使わない方が他の4人の世界観との対比が際立ち、筋の通った演出になるのではないだろうか。劇の最後、女子大学生がなにかを決意したように前を見つめるシーンで、BGMが流れだすのはこの演劇にとって逆効果であるように私には思えた。
観客は、世界に対して具体的な解決はなにも示せないまま終わる演劇・それでも前を向いている彼女に対して向き合うべきであり、その我々の緊張関係を音楽が「まぁまぁここらへんで終わりましょう」とでも言いたげに仲裁するべきではない。と、思ってしまうのは私が演劇を真面目にとりすぎているのだろうか。
また、コメディのシーンはセリフ単位でも、もっと面白く出来るだろう。個人的にはコメディ部分はもっとコメディに振り切った方がいいのではないかと思う。それによってコメディではない部分が引き立つということもあるし、その落差によってこの演劇の持つ痛切さがもっと痛切なものになって胸に迫ってくるのではないか。小説でも映画でも、きっと演劇にもあるだろうが、悲惨な過去の出来事をコメディで描くというのは一つの手法として伝統的にある。
この演劇は、その手法にもう片足を突っ込んでいるのだから、もっとコメディ部分はコメディとしていききって欲しいというのが個人的な感想だ。「是でいいのだ」というタイトルも『天才バカボン』からとっているのだろうし、コメディをやろうという意気込みはあるのだろう。また観客の中では時々笑いが漏れていたのでコメディの演出がスベっていたとは思わない。しかし、笑わせたいのかなんなのか分からない時間が結構多かった。コメディ部分では意味ありげな空気をなるべく排して、もっと観客の笑いをとることに開き直ってもいいのではないか。もし、そうしたとしてもこの演劇の持つ痛切さが消えることはないだろう。とはいえ、これは自分でも書いていて、いかにも演劇慣れしていない観客が要請しそうな要望だなとは思った。そのなんなのかわからない時間こそが、演劇を鑑賞するときの魅力的な体験の一つであるのかもしれない。

長くなったが、これが私の「是でいいのだ」に対する感想と批評である。一回しか鑑賞していないため、忘れている部分や確かでない部分も多く、間違った記憶や勝手な憶測で書いている部分もあるかもしれない。
演劇についてなにか文章を書いたのはこれが初めてだが、観返したり読み返したりすることが出来ないということが、こんなに大変だとは知らなかった。見てから書くまでに1週間かかったが、その間にもどんどん忘れていってしまう。
そもそも私は幼少期に劇団四季やミュージカルを見に行ったことを除けば、演劇を見るのは2回目で、そのうちの1回目は大学一年の時に見た学生演劇だった。つまりお金を払って見たのは今回が初めてだ。出来る限り誠実にこの演劇に向き合って批評したつもりだが、素人的ないちゃもんのつけ方をしているかもしれない。また、アカデミックなやり方としては不適切な引用などを行っているが、読みやすさを優先した。

「是でいいのだ」は5年前からほぼ毎年公演され続けているらしい。何度も見に行っている人も少なくないようで、毎年見に行っている人もいるようだ。たしかに「是でいいのだ」にはもう一度見たくなるような魅力がある。やや乱暴な評価で名作や傑作ではないと書いてしまったが、だからといってもう2度と見られなくなってしまうにはあまりにも惜しい演劇であることも確かだ。私がこんなこと書かなくてもまた来年からも引き続き演じられるのだろうとは思うが、今後この演劇が公演されることがあったらまた足を運びたい。


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