斎藤潤一郎「死都調布」について

 死都調布について語るのは、まずCHAPTER.5の「IN THE DOGGSOUP」を語ることから始める。このCHAPTERには「死都調布」の世界観が詰まっていて、読めば「死都調布」とは何なのかが少し見えてくるだろう。
 このCHAPTERの開始から3頁目、人間の頭蓋骨にたかる蠅と犬に餌をやる髪を束ねた半裸の女が描かれる。女はルンペンと会話を交わし、次のページでルンペンは犬に食い殺され死体となっている。そしてこの事件を追う刑事は、スーパーマーケットで働く女と接触し、また刑事の妻(貞子)も道端で女と接触する。そこからはもう刑事と貞子は普段の生活には戻れない。会話もすれ違っていくし、貞子は犬のことを忘れている。刑事の方も、スーパーマーケットの店員に卑猥な言葉を吐いている時点で最初からおかしい人間ではあるようだが、何かスイッチが入ったかのように暴力が暴走していく。また、貞子の方にしても、頭を殴られた時に「痛い」という肉体的な反応はしていても暴力を振るわれたことに対しての倫理的な反応はしていない。暴力を受け入れているように見える。この二人が暴力の世界に突入していくのは例の女との接触が契機になっていることは間違いない。まるで、あの女の暴力が乗り移ったかのようだ。
 あの半裸の女は一体何者なのだろうか?それは最後まで分からないし、結局何者なのかは描かれていないが、純然たる暴力的な存在であることは分かる。暴力の権化、人間の形をした暴力そのものだとも言えるかもしれない。ただ、その暴力は人間にのみ向けられていて、動物たちとは仲が良いようだ。CHAPTER.5でも犬に餌をやっていることから始まり、ペロの声を理解しているらしい。「死都調布」では動物たちはいつでもこの女の味方である。また、97頁に描かれるこちらを向いている蛇は、二人のことを監視しているように見える。ルンペンが殺されたことからも分かるように、髪を束ねたあの女は人間の敵であり、動物たちはその従僕である。「死都調布」では様々な動物たちが繰り返し描かれるが、彼らは人間に暴力を向けない時も人間を監視している。彼らは監視役なのだ。

↑97頁。蛇が二人を監視しているように描かれる。

↑62頁

↑132頁。この二つの頁では鳥が人間を監視しているように見える。

 そして、「死都調布」で動物と並んで頻繁に描かれるのが虫である。虫はどんな役割を果たしているのだろうか?この問いに対して、虫は一つの媒介であると仮定する。先ほど、女の暴力が乗り移ったかのようだと述べたが、この乗り移るという現象は虫によって果たされているのだろう。CHAPTER.5では刑事が暴力を振るう直前、電気の周りを飛んでいる蠅が描かれる。他のCHAPTERでも暴力が描かれる直前に虫が描かれたコマが挿入されることが非常に多い。これは偶然ではない。「死都調布」は暴力が虫を媒介にして乗り移っていく物語なのだ。

↑100頁。刑事が暴力を振るう直前の頁で蠅が描かれる。

↑141頁。この刑事はこの後部屋で眼鏡の同僚を撃つ。

↑134頁。暴力が起こった後に部屋から虫が出てくることで老婆が暴力が乗り移った人間だったことが後から分かる。

↑189頁。警官が発砲する前に街灯にたかる蠅のコマが挿入される。

↑166頁。

↑168頁。この二人が喧嘩を始める直前、バッタやトンボが描かれる。

↑176頁。CHAPTER.8は蠅が描かれたコマで終わるが、この二人がこの後どうなるかはもう明らかだろう。
これらの暴力に対し、CHAPTER.8で葬式に来たまさしを殴る男や、CHAPTER.9の最初で追い剥ぎが描かれる時に虫を描いたコマが挿入されることはない。これらが異常な暴力ではなく、現実世界でも有り得る普通の暴力だからである。

虫を司っているのもやはり、あの髪を束ねた女なのだろう。この女は人間の形をしているが人間ではない。CHAPTER.5の最初の頁で姓は死都 名は調布と書かれていることからも、この女こそが死都調布なのだ。しかし、この女の行動原理は不明である。ルンペンとの会話で「何してんの」「別に」「一体何考えてんのよ」「なんも」という受け答えから分かる通り、自分の意志は持っていない。彼女には行為があるだけである。このことはCHAPTER.9で誰かからの指令を受けていることから、なおさら明らかになる。

 話をCHAPTER.5に戻そう。このCHAPTERでは麻里が火を噴く骸骨に変身し、髪を束ねた女の所へ飛んでいく場面で終わる。この描写で、それまではオイオイと思いながらも何とか付いてきていた読者を一気に引き離すような展開である。しかし、この最後の4頁こそが「死都調布」を語る上で最も大事なのだ。
 麻里は首を吊っている状態で再登場するのだが、次の頁ではもう骸骨に変身している。しかし、普通に考えれば首を吊った人間が次の瞬間に骸骨になっているということは有り得ない。「死都調布」では有り得ないことが次々起こるので、この変身も違和感なく受け入れてしまうが、やはりこの変身には大きな意味がある。それはこれが「変身」だからだ。CHAPTER.4では最後に犬の噴いた炎に焼かれた大阪人が骸骨になる描写があるが、これは焼かれて骨になっているので変身ではない。こういう普通の、常識的な、人間が骸骨になる描写が以前に描かれたことがある以上、麻里が骸骨になった時には何か超越的な力が働いたと考えない訳にはいかない。子どもというのは「生きる力」を象徴する存在である。その生命力の象徴が、死の象徴である骸骨に変身する。この生から死へのダイナミックな逆転現象は何故起こるのか?

 その前に、「死都調布」で描かれる幾つかの異常な暴力はどう説明したらいいのだろうか?CHAPTER.5で夫婦の間に描かれる類のものである。彼らがあのような異常な暴力の世界に突入していくのは、死を乗り越えてしまったからである。後述するが、暴力が乗り移った人間は最終的には虫になっていく。つまり、もう人間として死ぬことは出来ない。普通の意味での死の権利は取り上げられてしまう。暴力が乗り移ってしまった人間たちは死を乗り越えてしまうとすると、「死都調布」で描かれる異常な暴力にも説明がつく。
CHAPTER.5の刑事と貞子の夫婦にとって、暴力はもはや恐怖の対象ではなくなっているのだ。痛みは感じているようだが、その痛みは生命が脅かされる恐怖にはもう繋がっていない。だからこそ刑事はカジュアルに暴力を振るうし、貞子もその暴力を無批判に受け入れる。死が機能しなくなった人間たちは逆説的に常に死んでいる存在だと言えるかもしれない。彼らは、かつて痛みが死の恐怖と繋がっていた記憶を懐かしみ、意識的にか無意識かは分からないがそれを求め、今では果たされなくなった死の代わりに暴力を求めているのだろう。死が機能不全を起こしているという点において「死都調布」で描かれる暴力は北野武の映画やロベール・ブレッソンの映画の中で描かれる暴力とは根本的に違うものである。
 刑事と貞子に対し、麻里はその異常な暴力に支配されはしなかったが、彼女はこの二人の大人があっち側にいってしまったことを感じ取ったのだろう。そして生の象徴であるこの子どもは首吊り自殺をすることで、自分に対しまだ失われていない死を機能させ、その後勇敢にも両親を救おうとする。彼女は骸骨に変身することで今度は死をその体にまとい火を噴き両親を焼く。彼らに死を機能させてやることで、もう一度死の秩序(=生の秩序)を取り戻そうとするのである。また、麻里は自分の本当の敵が誰かも分かっている。実際、麻里のこの炎は有効なのだろう。あの髪を束ねた女は、どのような暴力に遭遇してもいつも飄々としているが、骸骨となった麻里が飛んでくる場面だけは、ビビっているような顔が描かれる。「死都調布」の中でこの女の顔から余裕の色が消えるのは唯一このコマだけである。

↑107頁。女の顔から余裕が消える。

 この二人の勝負の行方は描かれずにCHAPTERは終わってしまうが、麻里はきっと負けてしまった。調布の町に死の秩序が戻ることはなく、「死都調布」は続く・・・

 CHAPTER.5で明らかになったことを踏まえてCHAPTER.9とCHAPTER.10を読んでみる。CHAPTER.9はまず追い剥ぎが登場するが、この追い剥ぎはただの追い剥ぎで、言うなれば小悪党である。それは、正当防衛で警官を撃ってしまったあとに後悔していることからも分かる。実はキョロキョロしているというだけでその男を撃つ警官が、向こう側にいってしまっていて暴力を求めている存在だ。追い剥ぎはその後、斎藤潤一郎にも会いに行くのだが、不幸なことに斎藤潤一郎ももうあっち側の人間だった。斎藤潤一郎が暴力を振るう時、もはや直前のコマで虫が描かれたコマが挿入されることはない。それは、彼自身がもう虫になる段階までいっているからである。
CHAPTER.7で刑事KA2MURAがTHIS MAN IS COCKROACHING IN THE BRAINの状態になっていることからも分かる通り、虫から暴力に感染した人間は最終的には自身も虫になっていくのだろう。斎藤潤一郎はCHAPTER.9の時点でもうCOCKROACHINGな状態になっていて、最終CHAPTERで巨大な虫になる。

↑151頁。一番下の右のコマで、THIS MAN IS COCKROACHING IN THE BRAINなことが分かる。

CHAPTER.9でもう一つ重要な点は、子どもがまた出てくることである。「死都調布」では子どもが描かれることは少なく、久しぶりの子どもの登場である。しかも、今回も子どもが骸骨になる。シリーズを通して今まで2回しか出てこない子どもが2回とも骸骨になることで、この変身には作者の意図が何かあることは間違いない。私が思うそれが何であるかは先述した通りだが、今回の子どもの骸骨への変身までの過程は完全にと言っていいほど、前回と一致している。それは、目の前で自分の親が異常な暴力にさらされ、その暴力の主と対峙した時に骸骨に変身するという過程だ。しかし、今回もまた子どもは勝てなかったのだろう。斎藤潤一郎も髪を束ねた女も次のCHAPTERでまた登場する。
 CHAPTER.10では女の左目に機械が入っていき、この女がサイボーグかアンドロイドかあるいはもっと別の何か、とにかくやはり人間ではなかったことが分かる。またCHAPTER.9の最後で誰かからの指示を受けていることから黒幕のような存在も示唆される。斎藤潤一郎が巨大な虫に変身した時、回覧板を持ってきたという男が全く驚かずに、またズボンを突き破るほどに陰茎を勃起させていることからこの男が黒幕のような気もするが、私にとって黒幕は誰かというのは重要ではない。

 CHAPTER.10で女は鳩と戯れたり、モグラとやり取りをしたり、牛を操って人間を殺したり、動物は完全に人間ではなく女側だということが繰り返し描かれる。斎藤潤一郎が巨大な虫に変身し、牛が人を殺したところで、物語はクライマックスに向け大きく盛り上がっていく。巨大な虫は人間たちを襲い、カタストロフィーが訪れる。女はこの時を待っていたかのように、電車で巨大な虫のもとへ向かう。女はこのCHAPTERではもう服を着ることはない。彼女は常に全裸である。動物的な存在に一層近づいたようだ。彼女は今までは人の前に出る時は服を着ていたり、あるいは半裸だったり、人間に擬態しようとしていた。しかし、もうこの最終CHAPTERでは人前で闘牛を観戦するのも、電車に乗るのも全裸である。彼女はもう人間社会に擬態するようなことはしない。これは彼女の使命が達成され、もう役目が終わっていることを意味する。虫を媒介に暴力をばらまき最終的には巨大な虫を調布の町に生み出すという使命である。これで調布の町はいよいよ終わりのように思われたが、作者は最後の抵抗のチャンスをしっかりと描いている。勿論、子どもである。巨大な虫によって母親を殺され「ママー ママー」と叫ぶ赤子が描かれている。「死都調布」で描かれる3人目の子どもである。最終話の終わりから2頁目というラストシーンの大事なこの頁で赤子が描かれることには大きな意味がある。異常な暴力によって目の前で親を殺された赤子はこの後、巨大な虫と対峙するだろう。そして当然骸骨に変身し、最後の戦いが始まるのだろう。その行く末が作者によって描かれることはなかった。今のところ子どもたちは全敗だ。しかも、今回の敵は今までとは比較にならないほど強大である。作者が描かなかった頁で空を飛び火を噴く赤子の骸骨は調布の町に死の秩序を取り戻すことが出来るのだろうか・・・


 「死都調布」という漫画には謎が多い。一回読んだだけでは、「あぁ、この漫画は作者が描きたいモチーフやアクションを好きなように描いていて、ストーリーに整合性や意味を求めたり、解釈しようとしても無駄なんだな。‟ノリ“を楽しむ漫画なんだな。」と思ってしまうような漫画である。少なくとも、自分は最初に読んだ時、トーチwebで連載されて一話ずつ更新されていた時はそう読んでいた。しかし、単行本になってまとめて読めるようになり何度か読み返していると、かつての自分の評価は間違いであったことに気付く。斎藤潤一郎は2018年10月18日、次のようにツイートしている。

いわゆるガロ系と呼ばれる漫画の、あのモノローグ主体で、話の筋とは関係ないイメージカットが出てくるようなのとか、俺は『死都調布』の中で一回もやってないからな。俺はセリフと動作、具体的な描写の積み重ねだけで物語を描いてる。意味のないコマなんてない。よく読めよ。手法が全然違うんだよ。

このツイートに自分は密かに脅えた。自分の漫画の描き方はまず最初に文章があり、つまりモノローグ主体で、そのモノローグを語るためにコマを用意し、コマが用意されてしまったから仕方なくテキトーに絵で埋めていくような描き方である。このせいで意味のないコマが量産されてしまう。こういう描き方をしているせいで人の漫画を読む時も文字情報ばかりを追ってしまっているような気がする。しかし、「死都調布」は文字では書かれずに絵やコマの順番で描かれていることが余りにも多い。自分が死都調布をよく読んでないことを作者に見透かされているようで脅えた。そこで、「死都調布」に意味のないコマは一つもないと思って読むと、とりあえず虫と動物が頻繁に描かれることに気付く。そして虫と動物は大きな役割を担っている。意味のないコマなんてないというのは本当だった。

 現時点では「死都調布」にはストーリーや意味はなく、絵とグルーヴを楽しむものというモードが形成されているような気がする。実際、それがこの漫画の最大の魅力であることは確かだ。絵が魅力的だからだ。この文章では「死都調布」にストーリーを見出し、それがどのように描かれているかを述べてきたが、それでもやはり多くのことは謎のままである。例えばCHAPTER.2の妻と風俗嬢が入れ替わる話や、CHAPTER.6のラストがそうである。それに、この一連のシリーズは一つの世界線で起こっていることなのだろうか?同じ外見の人間が職業を変えて出てきたりする。時系列が入れ替えられて収録されているのか、それともパラレルワールド的な概念が導入されているのか?それらは分からないままでいい。謎が謎のまま転がっているというのがこの漫画の基幹である。

 ただ、「ストーリーがなくハッタリで逃げているだけ」という評価も目にした。これはいわれなき批判である。斎藤潤一郎は「死都調布」を適当に描いている訳ではない。一読者として「雰囲気漫画」「大したストーリーがない」という評価には「よく読め」という言葉を返させて頂く。「死都調布」はれっきとしたストーリー漫画であり、それどころかストーリー漫画の新たな地平に踏み込んだと言っても過言ではない。漫画というのは小説や映画に比べて読者が「分からない」ということがまだまだ許されていない。しかし、この態度ははっきり言って読者の怠惰なのである。そして分からないという感想が生まれるのは仕方がないにしても、分からないことが作品の低評価に直接繋がると考えていることは読者の被害者意識による傲慢そのもので、これは唾棄すべき風潮なのだ。怠惰で傲慢な読者には「死都調布」は分からないものであり続けるだろう。そもそも、分かり易いだけの漫画を描くのは別に難しいことではない。分かり易い漫画を描くためのメソッドは幾らでも存在している。そして、その逆の分からないだけの漫画を描くことも当たり前に容易である。「死都調布」はそのどちらにも属さなかった。このような漫画を描くことは簡単なことではないだろう。それでも斎藤潤一郎はその道を選んだ。それは作者が確固たる美意識を持っていたからである。こういう漫画を描いたら少なくない読者がついてこれないことは作者も描いていて比較的早い段階で気付く筈だ。それでも作者は自分の美意識を優先した。それに対し、怠惰で傲慢な読者は分かり易い漫画に慣れ過ぎていたのだろう、悲しいことに意味のない漫画と説明されない漫画の区別がつかなかった。しかし、この反応こそが漫画にはまだ描かれていない新たな地平があることの証明でもある。嬉しいことに、漫画はまだ完成していない!

画像は全て単行本『死都調布』(リイド社)から。

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