不吉霊二の漫画について

 不吉霊二、この素晴らしい才能について何かを言おうとするといつも悩んでしまいます。1997 年生まれの不吉霊二は 2010 年代の終わりに漫画界に不意に現れ、これまで 自費出版の単行本1冊と商業デビュー(トーチでの「あばよ~ベイビーイッツユー~」)してから僅か4話しか発表していないにも関わらず 2010 年代最高の漫画家の一人になってしまいました。
 不吉霊二の漫画を読むと、これに対して言葉で感想を述べたり解釈したりすることは全く意味のないことだと毎回思います。漫画好きの友人と話す時も「不吉霊二どう思う?」と聞かれても「素晴らしい」という言葉を漏らすだけでそれ以上は語れないということを何度か経験しました。勿論、話が素晴らしい、描線が素晴らしいということを言って言えないことはないけれども、そんなことは読んだことのある人なら皆分かっていることだし、自分の粗末な修辞で語ってみたところで作品を的確に表すことは到底出来ない。そればかりか自分の下品な饒舌が結果として作品を貶めることになるものを口走ってしまう、あるいは書き連ねてしまうだろうという直感がありました。そして恐らくその直感は正しく、不吉霊二の漫画は「読めばわかる。わからない奴には何言ったってわからない。」という類の作品だと思います。
 そのため話がどの様に素晴らしいか、描線がどの様に素晴らしいかには触れずに(それは読めばわかります)、不吉霊二が天才であるということを書きたいと思います。
 不吉霊二の漫画について何か語ることを諦めていた私は一冊の本を読んで、不吉霊二が天才であることを諸手を挙げて断言出来るかもしれないと思いました。
 蓮實重彦は『スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護』の中で次のように書いています。

 「私はテニスのナブラチロワのプレーが好きでした。何よりもまず、どこか小意地が悪そうで、テニスは自分のために存在しているかのごとき傲慢なプレーが気持ちよかった。本人が本当に意地悪か傲慢かが問題ではありません。多くのプレーヤーがひたすらテニスにふさわしくあろうと健気な努力をしているときに、自分が動けばテニスなどあとからついてくるとでもいいたげに、ナブラチロワは傍若無人に振る舞っていた。(中略) 傍若無人とすら映る彼女の動きそのものが、その瞬間ごとに「これしかない」という仕方でボールとの親しい関係を維持し続けました。(中略) それは規則があるから余儀なく受け入れる正確さではなく、彼女が傲慢きわまる動きによってその瞬間ごとに「これしかない」という真実の運動を身をもって証明している正確さなのです。傍若無人とはこのことでしょう。まさに、彼女の運動の中で「知性」と「想像力」が一つになっており、この傲慢さは無償なまでに「美しい」。」※1

 この文章を読んだ時、「テニス」を「漫画」に、「ナブラチロワ」を「不吉霊二」に置き換えても何の問題もないな。などとぼんやりと考えていました。そしてページをめくっていると、蓮實重彦は「テニス」を「映画」に、「ナブラチロワ」を「ゴダール」に置き換えて語り始めたのです。私も不吉霊二について語ることを決意しました。
 同じ章で「スポーツと同じく、映画にも「これしかない」という動きがある。そして 「これしかない」という動きをしかるべき監督はやってしまうのです。」※2 と蓮實重彦 は書いています。そして不吉霊二の漫画は全ページにわたって「これしかない」というコマで溢れている。描かれる前には我々には想像もつかないが、いざ描かれてみると「これしかない」という確信と興奮を抱かせる、不吉霊二の漫画はそんな漫画です。
 ゴダールの映画と不吉霊二の漫画には何の影響関係もありませんし、ナブラチロワのテニスはそれ以上に関係ないですが、自分が動けばテニスがついてくると思っているナブラチロワと自分が動けば映画がついてくると思っているゴダールが傍若無人さにおいて共通していると指摘されるならば、私はそこに自分が動けば漫画がついてくると思っている不吉霊二を加えたい。つまり、不吉霊二はその傍若無人さを失わない限り、どんな漫画を描こうと天才なのです。

 『スポーツ批評宣言』では話は野球に移ります。走攻守すべてにおいて高い能力を持っているイチローを高く評価しながらも「美しい」選手ではないとします。これに対し「美しい」選手として落合博満の名前を挙げ、この強打者が打ったホームランはその瞬間、スコアボードの数字やユニフォームに書いてあるチーム名を消滅させ、試合を「美しく」してしまったと評価します。
 蓮實重彦のスポーツを見る時の「美しさ」至上主義は徹底していて、長嶋茂雄のことを褒める際、打者としての長嶋ではなく、守備の時の三塁ゴロをトンネルしたエラーを思い出し「まるで、動きを欠いたゲームを活性化するためにエラーをしているようで、これは本当に美しかった。」と書いています。
 私はこれと同じ感慨を1986年のワールドカップでのアルゼンチン対イングランド戦のマラドーナに抱きます。マラドーナはこの試合で2得点を挙げますが、この2得点はサッカー史において最も有名なゴールの 1位2位でしょう。1点目は反則であるところの手を使ったゴール、ヘディングに見せかけてパンチしてゴールを決めた「神の手」とも呼ばれる悪い意味で伝説的な1点で、2点目はドリブルで5人を抜き去り見事に得点した良い意味で伝説的な1点です。0-0で前半戦が終了し、停滞したゲームを活性化させるための反則、そしてそこから導きだされる「これしかない」と無条件に分からせる2点目。アルゼンチンはこの 1986 年のワールドカップで優勝します。このワールドカップでのマラドーナは紛れもなく「美しい」。実際、マラドーナはこの時の反則での 得点を恥じるどころか、誇りに思っているのです。エミール・クストリッツァによる映画『マラドーナ』(2008)の中での、クストリッツァによるマラドーナへのインタビュー場面でそのことは分かります。1982 年にフォークランド紛争が起こり、アルゼンチンはイギリスよりも多くの死者を出していた。マラドーナはサッカーのアルゼンチン対イングランド戦がどのような意味を持つのか理解していたし、手での得点に関しても卑怯なことをされたからやり返しただけだと得意げに語ります。そして、当時弱い国が強い国に勝つにはサッカーしかなかったとクストリッツァは言う...。

 余りにも話が逸れてしまったので、話を漫画に戻します。つまり、不吉霊二の漫画は長嶋茂雄のエラーやマラドーナのハンドと同じ「美しさ」を持って存在しているのです。
 そんなのアリ!?という漫画で私たちを出し抜き、その是非をこちらが問うよりも速く強く迫ってくる「美しさ」が私たちに届く。不吉霊二の漫画は例えば絵のデッサンが狂っても、それが全くマイナスに働かないばかりか、それ故に「これしかない」と思わせる圧倒的な「美しさ」を伴って描き出されている。そして不吉霊二はそれを分かっていて描いている傍若無人さがある。これは天才のみが達成できることです。
 私は小一から高一までサッカーをやっていたのですが、当時マラドーナやジダンやロナウジーニョを真似してプレーすると目も当てられない酷いプレーになってしまったのと同じように、凡才には真似できない芸当なのです。

 スポーツの世界では天才という言葉がよく使われます。それは天才という言葉を使わずにはとても説明できない選手がいることは明白で、それを目の当たりにすれば受け入れざるを得ないし、またその天才的なプレーを見て興奮したいという欲望を観客が恥じていないからだと思います。それに対して文学の世界では一人の天才が現れその人が天才的な作品を書くことで文学を更新していくかのような文学史、天才史観からは脱却しようという風潮があります。勿論、天才史観から脱却することで見えてくるものはあると思いますが、自分がプレーヤーとしての立場に立てば天才は歴然として存在すると実感します。そしてプレーヤーにとって天才の存在は嫉妬と羨望が混じった形であれ心地よいものなのです。私は天才がいない世界、興奮の失われた世界には興味を持てません。
 これまで述べてきた以上の理由から不吉霊二は天才であると断言します。

 現在の、ビデオ判定によってハンドでのゴールは生まれ得なくなり、そしてアイディアよりもシステムが勝つサッカーを見ても、私は興奮したり感動したりすることはなくなってしまったけれども、不吉霊二の漫画には新作が発表される度に興奮し感動します。そして読む度に不吉霊二の同時代人たりえた自分を幸福に思うのです。
 最後に蓮實重彦のナブラチロワ評を不吉霊二に勝手に置き換えて書いてみます。

 私は不吉霊二の漫画が好きでした。何よりもまず、どこか小意地が悪そうで、漫画は自分のために存在しているかのごとき傲慢さが気持ちよかった。本人が本当に意地悪か傲慢かが問題ではありません。多くの漫画家がひたすら漫画にふさわしくあろうと健気な努力をしているときに、自分が動けば漫画などあとからついてくるとでもいいたげに、 不吉霊二は傍若無人に振る舞っていた。傍若無人とすら映る彼女の描くものが、その瞬間ごとに「これしかない」という仕方で漫画との親しい関係を維持し続けました。それは規則があるから余儀なく受け入れる正確さではなく、彼女が傲慢きわまる動きによってその瞬間ごとに「これしかない」という真実を証明している正確さなのです。傍若無人とはこのことでしょう。まさに、彼女の漫画の中で「知性」と「想像力」が一つになっており、この傲慢さは無償なまでに「美しい」。

※1蓮實重彦『スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護』、青土社、2004年、26,27頁。
※2 同書、34 頁。

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