掛け算順序の強制について思うこと

(私は掛け算順序の強制には反対です。)

(簡単なまとめ)
・学校や教科書は定義主体ではなく、別途定めた定義を説明する役割。
・「(ひとつ分)×(いくつ分)」は解釈の一つ。

強制した方が良いと考える方々の主張の中で広く幅を利かせているのは、以下の2つです。

・小学校では順序ありで定義しているため。
・順序ありで指導した方が効率が良いため。

後者については一定の理解は示すものの、減点対象とする根拠にはなり得ないと考えています。単なる説明の工夫についての言及であり、採点基準とは全くの別枠だからです。それゆえ、本稿では前者について触れようと思います。

前者の補足として、よく「守破離」を唱える人を見かけますが、これは近代以前の教育と混じっています。近代以前、生徒は自分が目指す職業の先輩を師と崇めるのが普通でした。自分の目標を既に達成しているのが教員であり、その点において尊敬できるからこそ、できる限り真似ようという意識が生徒にあり、「守破離」が成立していました。この頃は、「教わる」というより「見習う」という方が適切です。

しかし近代以降、大衆教育に転ずることになります。平たく言えば、教員と生徒で目指す職業が異なるので、教員は生徒の憧れの姿ではなくなりました。よって、近代以前の「守破離」を強要することは、もはや叶わなくなったわけです。

かくして教員が主体となり、客体たる生徒を教え導くという構図が取られてきました。生徒自らが教員を真似ることは無くなっため、教員側から働きかけようということです。(ここまでの流れは、宮沢康人「学校を糾弾する前に」に詳しいです。)

しかし、教員は生徒の尊敬の対象ではないので、生徒が従ってくれるとは限りません。そうして少しずつ、抑圧的な学校空間が形成されました。「ブラック拘束」等は典型例ですが、最も象徴的なのは体育座りです。足を曲げているためすぐには立ち上がれないどころか、自分の足を自分の手で拘束し、挙句手足はどちらも使用不可能、という恐ろしい産物です。

抑圧的な学校空間とは、「教員が絶対」という空間のことを指しますが、特に最近は、「教員が言ったこと以外は誤り」とする人が増えているように感じます。「習っていない漢字は×」「習っていない解き方は×」…etc…。「説明した順序で書かないと×」とする掛け算順序も当然含まれます。

ではなぜ抑圧的な学校空間は良くないのでしょうか。
「抑圧的な学校空間」は「物事を一つ一つ定義し、それ以外は許されない空間」と言い換えることができます。そんなことによる不都合はほぼ自明です。「習っていない漢字は×」ならば、「習っていないひらがなは×」ということにもなり、小学校1年生のテストでは名前を書くことが許されません。もっと言えば、「習っていない言葉は×」です。私が小学校1年生のとき、生き物の育て方の授業がありました。クラスで亀を飼おうという話でした。
先生が「どうしたら気持ちよく暮らせるかな?」という質問に対し、昆虫に詳しいマサアキ君が「暮らすのに適した気温が必要です」と発言していました。私を含め大半の児童は「テキした」の意味がわからず、凍っていました。おそらく彼は昆虫図鑑を眺めている中でその語彙を獲得したことと思いますが、抑圧的な学校空間では、「適した」なんて言葉を使ってはいけないと怒ることでしょう。もっと言えば、まだ理科の授業もないので、「適温が必要」だという知識自体が批判の対象になったかもしれません。
そんなことになったら、児童が自分から学ぶ意欲を失います。

もちろん現実には怒られず、解放的な空間を享受しています。問題は、なぜか算数になった途端に、抑圧的になる人が現れることです。

その人たちにとって、学校での算数は「物事を一つ一つ定義し、それ以外は許されない空間」ですから、「教科書の順番で書け」という主張につながるのでしょう。
ただし学校は「物事を一つ一つ定義し、それ以外は許されない空間」ではありません。本当に「ひとつひとつ定義」しているのであれば、中学校で無理数、高校で虚数が出てくるたびに、掛け算の再定義が教科書に載っていて然るべきです。しかし現実にはその片鱗すらありません。理由は簡単です。物事を定義するという機能を、学校が担っていないからです。

学校の役割は、既存の概念を噛み砕いて生徒に教えることです。掛け算を厳密に定義しようとすれば、高校課程まででは歯が立ちません。まして小学生には無理です。しかし実際の操作自体は小学生でも理解できるほどシンプルです。そこで、定義を噛み砕いて説明します。これが教科書(や学習指導要領解説)に記載されている「(ひとつ分)×(いくつ分)」の正体です。

つまり、「(ひとつ分)×(いくつ分)」は定義ではなく、解釈の一つに過ぎません。「数学的な演繹はもっと別の世界にあり、それのメタファーとして現実の事象を重ね合わせている」という考えにも似ています。(この辺りは「数学は普遍的でない!」という主張に同調する一方、普遍的でないからこそ「(ひとつ分)×(いくつ分)」という、現実を前提とした定義は筋がわるいとも思います。)
字面で見ると理解しづらいかと思いますが、言わんとすることはシンプルで、「3×2=6をみて、式が表す事象を説明できすか??できないよね?」というのと同じです。「りんご3個セットが2つ」「みかん2個セットが3つ」など無限に考えられます。解釈の一つとはそういうことです。

長々と書きましたが、こんなところです。やはり掛け算順序を強制する根拠はないと思います。





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