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このまぶしい世界で

 あなたの瞳に映る世界は、きっと他人のそれよりまぶしい。

 そう言われたことを時折思い出す。ロマンチックな響きを含んでいるが実際のところは眼球それ自体を指しての会話だった。黒目が薄いほど視界は明るいのだという話をして、じゃあ、と返された次第。

 真偽のほどはさておき、仮にそうであれば何かと説明がつくことも多く、また表現の心地よさも相まって、大事にしている言葉のひとつが冒頭の一文だ。目を細めるのも惜しいほど、世界がきらめいてたまらない瞬間が、たしかにこの世にはある。

 特に輝きを放つ存在は何か。それは光だったり飛沫だったり瞬きだったりする。

 まばたきほど一瞬の光景であっても、この記憶を抱いて眠れるならもう目覚めなくてもいいとさえ思えるくらい、それらは色濃く薫る。

 たとえば2022年。

 3月。テーブルに泳ぐ木目をなぞるように、好きやきれいの因数分解をするさびしさについて話しながら口にした、窓から差し込む陽光をとくとくと湛えたシナモンチャイ。

 5月。大事な昔話が詰められた巾着の紐をゆっくりほどくか如くトラウマを解いてくれたときの、照明を受けて黄金に波打つジョッキの中の生ビール。

 9月。動き出す電車の横を笑いながら走る男性2人が、中にいる知り合いらしき女性にちぎれんばかりの勢いで手を振っている。灰皿みたいな街にけぶる、彼や彼女の息の白さ。

 10月。暴力に成り代わった愛を愛だからといって受け止めたり許したりする必要はないのだと説かれた。雨に降られた体をあたためるのは、海老ワンタンの肉汁の透明。

 これらは今年残した日記から引っ張り出してきたものたちだ。香り立つ思い出の肌触りを忘れないために、あるいは忘れてもいいように、私は書いている。

 思い返すと、記録することに尻込みしていた時期が、この1年の中でも何度かあった。まばゆさの理由を知るだけ、ときめきが立ち消えそうなのが怖かったのだ。

 忠実に表そうとするなら、形作る要素を理解し、分解して、組み立て直す必要がある。しかしそんな解剖じみた行為に手を染めては、純粋な感動は脆くも剥がれ落ちてしまう気がした。

 だけど、もういつ閉業になってもおかしくないと噂される喫茶店で、カップからくゆるコーヒーの湯気を目の当たりにしたとき、忘れたくないことまで忘れてしまうことの方が、ずっとさびしいのだと気がついた。

 この瞳に映る光のすべてを、私は死ぬまで覚えていたい。もしも忘れてしまっても、思い出せるくらいの輝きを、箱いっぱいに詰めておきたい。

 だから来年もその先も、書いては残し、残しては書くだろう。たとえこの目が濁っても、変わらず世界がまぶしくあるよう。

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