書くことは至高の自己満と究極の他者承認

おおむね書きたい!という感情は自己不満足から発生していると感じる。足りない。しっくりくる言葉が、感情の表現が、思いの整理が、足りないからこそ目に見える形に書き起こしたい。自分自身の不明瞭な意識を明確化して、明朗快活に残したい(不思議と書いた後の気分や、書いた文章自体にも、清々しさがある)。これはつまり、どこまでも内省を進めて、ちいさなオッサンと語って、ちまちまと縫い物をするがごとく自分を説明していく作業なわけで。別に誰に向けられてもいない行為なわけで。となると完成品だっててっぺんから白い爪の先まで自分のために誂えたものになる。自分のやりたいことをやった。書き終えて満足、読んで満足、以上。

とそこで終われば何ら不思議はないのに、何故か、書くことには読者が伴う事が多い。いや勝手に読者が現れるわけは当然なく、読者を求めるのは私の方なわけであるので、まあ、読んでほしいのだ。一個人ド素人の脳みそを捏ねくり回し続けてようやく蛇口から垂れる一滴のように発露された文字列を、読ませたいのだ。何故?何故なんだ、共感か?自分が一人ではないと、こう思う人間がそこにもいるのではないかと、ああ分かります、なんて肩を叩いてくれることを期待しているのか。期待しているんだろうなぁ、そしてその期待に応えてもらえるというのは、突き詰めた自分自身を認めてもらえたようなものなので(もちろん題材は自分自身ではないから、成果物に込められた私、みたいな意味)、びっくり仰天なくらい承認欲求が満たされる。

凄すぎる、自己への満足と他者からの承認が並行してゲットだせなんて、なかなか無い。いや、あらゆるアウトプットに言えるのかも知らんが(絵を書くなり、資料を作るなり、他人とコミュニケーションを取るなり)ともかく一番インパクトが強い。でも恐ろしい、自分から始まった物事が、他人に乗っ取られる恐ろしさがある。あくまで自分事であると思わないとメンタルがやられる。
しかし、やはり、不思議だ、なんで自分事が他人に繋がるのだろう。この不思議さは今、伝わっているだろうか。どう?

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