資本主義の次の主義、幸福主義

普段ぼんやりと考えていることを、つらつらを書き留めておく場所にしようかと思い、書き出してみようと思う。私が書く内容は、基本的にただの妄想でしかないので、それを前提に読んでください。

さて、タイトルの通り、資本主義の次の主義について。まず、なぜそんなことを考えたのかというと、資本主義の限界が訪れているのではないかと感じているからです。資本主義、端的に言うと資本を物差しとして世界を構成しようぜ、的なことだと思う。なので、法律の範囲内で利益を最も上げるのが善という世界観、でいいかしらね。

世界がまだ貧乏であった時にはそれでよかったのだけれども、豊になり物が溢れ出した昨今においては、利益を善とした行動に限界がきているように感じている。

具体例を挙げてみる。

大量生産大量消費、大量に作ることでコストを下げて、その大量に作られたものを大量に消費していく世界。そもそも、これだけ便利なものが揃っている状態で、これ以上人類は大量に商品を必要とするのだろうか。毎年毎年、スマホの新しいモデルは必要なのだろうか。スマホのカメラの性能が毎年上がることが、世界にとって本当に必要なことなのだろうか。我々は、まだ使えるものをホイホイと捨て去り、モデルチェンジがあれば捨て、ちょっと古いものに傷がつけば捨て、直すよりも買った方が安ければ捨て、毎日毎日使い捨てのものを使って捨て、世界にとってそんなことが本当に必要なのだろうか。

だが資本主義においては、買い換えるという行動は善だ。その分経済が回る。なのでより多くのものを捨て、より多くのものを買った者が良い行いをしたものである。より多くのものを作り、より多くのものを売ったものが良い行いしたものである。モラルを超えて、利益の追求こそ資本主義の真髄なはずである。

視聴数至上主義、より多くの視聴者を獲得し、広告費を消費させることこそメディアの善行である。そこにはモラルも必要ないし、人間性なんてものは不要だ、高い視聴数によって生み出される高い広告費こそ至高のものである。ニュースも、視聴率の取れないようなニュースは特集なんかしない、国民が面白おかしく叩きたいネタを延々と流して、広告費を出してくれるスポンサーにはきちんと配慮した番組を構成し、高い広告費をゲットすることで経済が回る。Youtuberも一緒だ、どんなに迷惑な行為であっても、それがプラットフォームのルール内で且つ法律内のことであれば、あとは視聴数が稼げているのであればそれは資本主義においては善行なのだ。その醜悪な動画でさえも高い広告費に変わり経済を回すのだから。

おそらく、まだモラルがあった時代は資本主義でよかったのだ。だが、提供する側も受け取る側も、もはやどちらにもモラルは失われつつある。合理性には抗えないのである。

そんな世の中は、果たして幸せなのだろうか。

資本を主軸にしてものを考えるから、人間は物質的には豊になったが、その替わりに不幸になっていったのではないだろうか。

そもそも、人間を幸福にしたいのであれば、幸福というものを主軸に考えてみてはどうなのだろうか、そう思って幸福主義というふうに考えたわけです。なんか新興宗教っぽくてキモいけど。

幸福主義、人間が幸福に近くことを善行として、それを評価する社会システム。一人ひとりの人間だけではなく、社会全体、全世界的にも当てはめて幸福度を測る。

(書いてる途中、あとで追加する)