見出し画像

クリエイターにとっての「作風」とは

写真を突き詰めてやっていくといつか訪れるのが
私の写真家としての作品性とは?
という疑問(壁)ではないでしょうか。

はい、まさに私です(笑)
本業と並行し、カメラマンとしてお金をもらうようになってから早7年。最近はカメラマンとして独り立ちしたいと少しずつ思うようになってきましたが、収入面からいうと本業には全く遠く及ばず…また、これまでは知り合いを中心にやってきましたがそれにも限界が勿論あるので、私自身の認知度を増やすことが必要不可欠です。そしてそれに必要なツールはいうまでもなく、SNS。
そう。SNS時代のクリエイターにとって必須なのは、もちろんSNS。そこでの知名度が全てを左右するといっても過言ではないのが今の世の中。
そんな中私ももちろん、Twitter・Instagramで様々な試行錯誤をしてみたものの、鳴かず飛ばず。あまりの情けなさにアカウントを消して冷却期間を設け、今、3度目の挑戦です。成功した人の話はたくさん落ちてると思うんですが、そうでない人の話があまりないと思うので(というかニーズが全く無いということかもしれませんがw)、私が今後SNS界隈で成功するかしないかはわかりませんが、成功していない今の内から、そういう時期だからこその本音の悩みをぶっちゃけつつ書いてみたいと思います。


■誰にお金を払うのか?なぜ、払うのか?

さて、ぶっちゃけ今の時代、カメラの値段が相当下がってきていますし、スマホの画質もすごく向上していますし、単に綺麗な写真を撮るだけだったら誰でもできちゃうんです。そんな状況で「お金を払って誰かに撮影をお願いしたい」となった場合、その「誰か」を選ぶ基準は何でしょうか?

人に何かをお願いするときって、こういう経路をたどるのではないでしょうか。

(1)完成のイメージを想像する
(2)そのイメージに近い作風の人を探す
(3)コミュニケーションを取って、予算感や人間性が合う人に依頼する

もちろん「単純な知名度」というのも大きな武器ですが、吐いて捨てるほどいるカメラマンの中から1人を選ばないといけないので、その大きな要素の一つに「その人の作品性」があるのは間違いないでしょう。

例えば「○○さんならおしゃれな色遣いでモデルの個性を引き立てるようなポップな写真を撮ってくれるからお願いしよう」みたいなノリです。

言い方を変えれば「第3者から見たときにわかりやすいラベリングが自分にされているか」ということが「想起」という点で大切になってきます。マーケティングの基本ですが「知られていない商品は存在しないのと一緒」なんです。実際、周りで成功したプロカメラマンの方を見渡すと、間違いなく「○○さんなら△△が得意」というイメージを持っていることが分かります。


■作風を極めることの重要性

さて、ここまでは多くの方が「そりゃそうだろう」と思っていただけるかもしれませんが、では実際に自分が選ばれる側に立つと考えたとき、どうやって「自分のラベリング」を決めるのか極めるのかは非常に難しい問題ではないでしょうか。私自身、ほぼあらゆるジャンルの写真を高いレベルで撮るという意味ではそれなりに自信がありますが、こと「作風」という点で見ると弱いなぁと思わざるを得ません。だからこそSNSなどのマスの中ではどうしても埋もれてしまうんですよね。

何でも撮れる=その道のプロには適わない=何にも撮れない

こういうロジックで詰んでしまうわけです。

だからよく言われるのは、強みは「T」字型に伸ばせ、ということ。
つまり、1つの分野にまずは特化し、そこだけは圧倒的な個性や作風でほかの人には提供できない価値観を提供しつつ、その他のジャンルは自分でできる必要はないけど本質だけは理解しておき、その道のプロとのコネクションは持っておいていつでもコラボレーションできるようにしておこう、という感じです。この「T字戦略」については企業戦略とも通じる部分があるので別途、どこかでまとめてみたいと思います。

さて、その際、「どのジャンルを掘り下げるのか?」という最大の問題が出てきますが、これは言葉でいうだけだと意外と簡単で

「自分の興味関心のある分野」×「社会のニーズ(隙間)」

を探っていくことになります。

興味関心がない部分だと続かないし楽しくないです。しかし楽しいだけ好きなことだけをやっていても誰も喜びません。自分の好きなことは、第3者にとって必要な価値になってはじめて日の目を浴びるのです。社会のニーズが顕在化されてるジャンルであれば先行事例がいくらでもあるのでもちろん楽ですが、その分そのジャンルはレッドオーシャンで競合も多いので、最後方から大逆転するのはかなりハードルが高いです。可能であれば「まだ人々に認知されていない、でも実は結構潜在的にニーズがある」ような分野を世の中の空気感や流れを敏感に捉えて半歩くらい先出しで見せていくことです。それこそスティーブ・ジョブスが得意そうなことですよね。

そうすることで
「~~といったら○○さん」
という評価が築けるようになるはずです。


■作風は一過性のブームなのか?

一方で、まだバズったことも作風を確立できてもいない私が言っても何の説得力もないことは承知で言いますが、現代における「人気」は、以前とは比べ物にならないくらいその回転が速くなっているような気もします。

1度バズっただけ歴史に残れるわけではないし、1度大きなフォトコンテストでグランプリを取ったところでも同様。すぐに人は忘れ、次なるトレンドを追いかけていくのです。

一方、今も昔も言われることは「歴史の波を生き抜いてきた作品は間違いなく名作」ということです。だからこそ「過去に学ぶ」ことが大切なわけですが、なぜ、「今に学ぶ」ことより過去が重要なのでしょうか。「イマ」を極め続けていけば、最強になれるような気がするのですが、違うのでしょうか。


■なぜ現代の才能は過去を超えられないのか?

そんな時、市川海老蔵さんの『眼に見えない大切なもの』という対談本の中で茂木健一郎さんが言っていた言葉が思い起こされました。

今の日本のものづくりは個性最優先だから、それを表現したものがすばらしいと考えられがちなんです。でも、ダ・ヴィンチは、自分の作品で個性を表現しているなんて全然思っていなかった。現在、すごいと言われているようなアーティストは作家性で売っている人が多いけれど、個性的ではあっても、作品としてどうかというと、疑問符がつく人も少なくないんです。ダ・ヴィンチとは正反対。面白い話があって、安土桃山時代の職人さんたちはとてもすばらしい器をたくさんつくったけれど、今の陶芸家はどうがんばってもああいうものをつくれないんです。土をこねて焼くだけのことなのに、なぜできないのかというと、今の作家は「自分がつくった」という意識があるからだという説がある。作品にそれが出てしまっているからだと。安土桃山時代の人たちは「職人」であって、自分の名前をつけて売ろうなんて考えてもいなかった。普段づかいされるための器をつくろうとしてか考えていない。そこには自意識なんてない。そこが根本的に違うのではないかと。つまり、「自分が」という意識を持ち始めたことが、日本人がダメになったことの始まりではないかと。
市川海老蔵『眼に見えない大切なもの』3章レオナルド・ダ・ヴィンチ【創造性について】

自分の個性を出して行くというのはある意味、人間の欲求としては本能的なもので、一歩間違えればエゴになってしまうかもしれません。しかし誰しもやはり「自分」を認めてほしいと思えば「自分」を出して行くのが普通の流れでしょう。その延長線上に「作風」ができてくるのかと思っています。

私もずっとそう思っていましたし、それをずっとここまで書いてきました。

ただ、茂木さんは、そうではない、と言うのです。


■個性を極めしものに許される自由

少し話を変えてみましょう。

ピカソは独創的な絵ばかり描いているイメージがあって、「そんなの俺にも書ける」なんて思ってしまいがちですが、実はピカソは模写をさせても写真のようにバキバキにすごい絵を描いてしまうことは有名です。もしかしたら、何かを極めているからこそその次のステップとして、個性を出して行く(=内面に深く潜り込む)のか、はたまた個性をなくしていくのか、という大きな岐路が待ち受けているのかもしれません。

言い換えれば、そして逆に言えば「個性を極めし者」だけが許される次の世界の入り口が「個性を殺すこと」なのかもしれませんね。

ふつうの事を極めているからこそ、次のステップとして脱個性に行くのか、純個性に行くのか、そういうある意味自由が待っているともいえるのかもしれません。


さて、初回なので今日はこの辺で。
そんな悩めるリーマンフォトグラファーですが、Twitterでは公共の場ということであまり悩みは吐露せず、こっそりでもないですがもやもやした思いはnoteでまとめていきたいと思います。結論のない長文でそもそも読むのも大変でしょうし(笑)そんな私がどんな写真を撮っているのか、もっと前向きな気持ちにさせてくれよ!という方はぜひTwitterの方をフォローし、見ていただけると嬉しいです。


本日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?