危うい連携ーポーランド・ウクライナ関係小史ー

 今回は基礎的知識ですので、無料です。
 ポーランドとウクライナは現在ロシアという共通の脅威の前に連携していますが、相互感情が実のところあまりよくないということを歴史的経緯をもとに簡単に説明してみたいと思います。


 ポーランドは旧ハプスブルク朝領だった西部ウクライナを獲得して独立した。このことは、露が戦争から離脱してロシア領ウクライナが一時的とはいえ独立していたことから厄介な問題となることになった。現在ポーランドはロシアからの脅威に直面してウクライナと緊密な関係を保っているが、2019年2月現在両国は右派政党が政権党であるため戦間期・戦中期の西部ウクライナでの出来事が折を触れ両国間の棘として表面化するので、少々煩瑣になるがざっと説明してみる。


 もともとウクライナの前身のウクライナ・コサックは当初は独立的な存在であったものののちにポーランドの影響下に入り、その後ポーランドとロシアの力関係の変化によって徐々にロシアの支配下に(西部はハプスブルク朝の支配下に)入った。このようにもともと単一の国家に支配されていたのではない上に広大な全領域が同じ歴史的体験をしてきたわけではないのである。さて、ウクライナ西部である。ここ、特に西部の代表的な都市リヴィウを中心とするハリチナ(ガリツィア)は、ルーシとポーランドとの辺縁に属し、ウクライナ人が祖と仰ぐウクライナ・コサックが出現した頃にはポーランドの支配下にあった。その後のプロイセン王国、ハプスブルク朝、ロシア帝国によるポーランド分割によりこの地域はハプスブルク帝国領に編入。この状態が第一次大戦まで続く。その後、第一次大戦でハプスブルク帝国が崩壊すると、一時はウクライナ人の独立政府ができたが、最終的にポーランド領に編入された。ハプスブルク帝朝配期のこの地域でのウクライナ人、ポーランド人の関係は良好なものではなく、また第一次大戦後の混乱状態での両者の衝突、またその後のポーランド軍の侵攻・占領・支配。ポーランド支配下では、抵抗組織としてウクライナ軍事組織(UVO)が結成されテロ・サボタージュ活動を行った。さらにUVOはより大きなウクライナ民族主義者組織(OUN)となりより大規模に活動する。この状態でソ連によるポーランド分割と独軍の侵攻を迎えることになる。独軍は当初OUNを利用するが、結局ウクライナの占領後、弾圧を開始した。OUNのメンバーはより戦闘的なウクライナ蜂起軍(UPA)を結成し、独軍、そして独ソ戦の形成が逆転するとソ連軍・ソ連パルチザン相手にゲリラ戦を展開する。ソ連南西方面軍ヴァトゥーチンを殺害するなど強力な抵抗を展開した。UPAは第二次大戦後も活動を続け、ソ連はポーランド、チェコスロヴァキアとともにUPAの鎮圧作戦を展開した。47年にUPA掃討のポーランド側責任者シヴィエルチェフスキ国防次官を殺害するなど激しい抵抗を行なうが、ソ連軍による、UPAが篭るウクライナ西部の森林の伐採、基盤である西部農村の集団化によるUPAの孤立化などの作戦、またポーランドによるポーランド東部のウクライナ人の強制移住(ヴィスワ作戦)などで次第にUPAは追い込まれ、1950年代に鎮圧されてしまう。


 この戦時中、ウクライナのヴォルイニ地方、東部ハリチナ等で、UPAによるポーランド人に対する大規模な虐殺が行われた(1943年)。この事件は、歴史的に相互感情が良いとは言えない両国関係の中で最大の棘となっており、ロシアの脅威のまえで団結する必要がある状況下で双方とも自制しているものの、たびたび表面に浮上してくることがある。ちなみに現在のウクライナではUPAは完全な英雄扱いである。


 ちなみに西部を語る際に忘れてはいけないのが、東方典礼カトリック教会である。これは教会合同の過程で生まれた、儀式その他を全て東方正教式に行うがローマを上に仰ぐ教会で、正教会からは裏切り者とされ、またUPAを支持していたこともあってソ連時代に弾圧された。しかし西部のウクライナ人信者は、かつてUPAが篭った西部の森林の中でミサを行っていた。このようにウクライナ西部は概ねカトリックなのであるが、上記の歴史の流れによりカトリック国のポーランドとの相互感情は基本的に良いとは言えず、露という共通の脅威があるから連携しているという危うい状況である。


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