はじめに:バルカン情勢の基礎知識

バルカン半島の紛争というと複雑で難解な背景があるというイメージをお持ちの方々も多いと思われますが、実際は単純ないくつもの事象が複雑に絡み合っているだけなので、一つ一つの事象について調べそれを総体として組み立てる作業は、それほど難しいものではありません。

ただ、バルカン半島は残念ながら日本ではあまり知られていない地域のためイメージが浮かびにくいという方々も多いと思われます。本稿では、細部にわたる説明は極力避け、バルカン半島の諸紛争の概要を理解しこれらをどのように見ていくべきかについて大まかに知っていただくレベルにとどめたいと思います。

レポートの冒頭にレポートの概要をまとめますので、本稿の基礎的な知識でも十分レポートの内容を理解して頂けます。

バルカン半島で紛争が多い理由はこの地域の住民のメンタリティーによる面もありますので、日本人が正確なイメージを描くのは難しいと思われます。ただ大まかに言って、隣人との紛争を繰り返してきた歴史を持つため、隣人に対する猜疑心が強いこと、また紛争のたびに怨念が蓄積されてきたこと、この二つがバルカン諸民族のナショナリズムの発露の際に表に出てくるのでナショナリズムが高揚すると即座に隣人に対する攻撃性が現れてしまうという点が挙げられます。またバルカン諸国の主要諸民族は「失われた領土」というビジョンを持っており、それはつまり自分たちの本来あるべき領土は今現在の領土よりも大きいものだという意識があります。これはバルカン諸民族の特性の一つである強力な被害者意識に裏付けられているため、自分たちは侵略者・圧政者ではなく、哀れな自分たちの祖先が奪われたものを取り返しているだけなのだと自己正当化され、それが紛争の長期化、そして紛争終結後の不安定状態の長期化をもたらしています。

よくバルカン半島の紛争の歴史は中世より続くとの言説を目にします。確かに中世のバルカン半島は騒乱が多かったですし(ただ同時期の世界の他地域よりも多かったとは言えないと思います)、また現代のバルカン諸民族の民族主義者たちが過去の栄光を中世の自国の最大領土や君主に求める向きもあります。

しかし、現在の紛争を理解するためには遡ってもオスマン朝のバルカン半島征服までで十分です。セルビアの自分たちは欧州の守護者という意識とコソヴォがセルビアにとって特別である理由(コソヴォの戦い)、アルバニア人とボスニアの住民の一部(現在ボシュニャク人と呼ばれる民族の祖先)がムスリム化したこと、セルビアからの難民が当時ハプスブルク帝国領だったクロアチア領内に多数住み着いたことはこれに由来します。

ただ現代のバルカン半島の紛争の大部分は、オスマン朝のバルカン支配のタガが緩み、バルカン諸民族が独立・旧領回復に邁進し始めてからの歴史のほうがより重要です。これら諸国が領域を広げて最終的にぶつかり合いを始めたあたりからバルカン諸紛争の歴史が始まります。

それでは、バルカン半島の紛争地域を大まかに3つに区切って、それぞれを見ていきましょう。

1.セルビア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、クロアチア

セルビアとボスニアはオスマン朝にそれぞれ征服されるまで独立国家を維持していましたが、クロアチアは早期にハンガリー領となっていました。
長らく現代のクロアチアとボスニアの国境がハプスブルク朝とオスマン朝の境界になっていました。その時代、オスマン朝の支配から逃れようと移住してきたセルビア人の集団をハプスブルク朝は国境警備の義務を果たすことを条件にこの国境線に住まわせました。このセルビア人の集団は第二次大戦と1991年から始まったクロアチア内戦で重要なアクターとなります。
ボスニアでは一部の住民がムスリム化しました。この集団についてはそれ以前はボゴミル派、パタレン派などのキリスト教の異端の信者だったという説もありますが、ともあれカトリックのクロアチア人、東方正教徒のセルビア人とあわせボスニアの三民族が成立します。
セルビアがオスマン朝からの自治権獲得、独立と自立の方向に邁進するのに比してハプスブルク朝内のクロアチア人は取り残されるかっこうになっていました。やがてこれら民族の間で団結し強力な国家を築こうという機運が高まります。これは第一次大戦でハプスブルク朝が滅亡しオーストリアが小国に転落することで実現します。
さて、この南スラヴ人の国家(最初はセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国、のちにユーゴスラヴィア王国と名乗ります)が成立したのもつかの間、この王国はセルビア王家が君主として君臨するのだからセルビア中心の国家であるべきというセルビア人と、各構成民族を平等にというクロアチア人との間で熾烈な論争が始まります。クロアチア人を宥め国内に安定をもたらすため様々な努力がなされましたが、国王は暗殺、そして第二次大戦勃発後ユーゴスラヴィア王国は枢軸諸国軍に侵攻・分割されます。このときクロアチアではウスタシャと呼ばれるファシスト集団を枢軸側の傀儡政権とする「クロアチア独立国」が成立します。この国にはボスニア全土とセルビアの一部が含まれており、ウスタシャ政権は領内のセルビア人に対し民族浄化的な弾圧を行います。これに対すセルビア人側も反撃する、これが現代のボスニアにおける民族対立の起源です。

これらはティトー率いるパルチザンに「平定」され、のちに成立した社会主義ユーゴスラヴィア連邦では民族宥和政策が進められますが、クロアチアでは「クロアチアの春」事件など民族主義的な流れが消えることはなく、セルビアでミロシェヴィッチが権力を握り民族主義的な政策を取り始めるとクロアチアでも民族主義が台頭し1991年の独立に繋がります。

この過程でクロアチア独立政府に強い猜疑心を持つセルビア人が独立宣言とともに武装蜂起し、このセルビア人の保護を名目にユーゴ連邦軍が介入してクロアチア内戦が始まります。

ボスニアでは社会主義時代は徹底して民族宥和が行われていましたが、ユーゴ国内各地で民族主義の動きが起こり、そしてクロアチアが独立するに及びボスニアの三民族でボスニアの今後の方針を巡り対立が生じ、1992年ボスニアが独立すると連邦残留を望むセルビア人が連邦軍の援助でボシュニャク人主体のボスニア政府と交戦状態に入ります。クロアチア人勢力は最初はボシュニャク人と共闘するものち交戦状態に入り、三つ巴の民族紛争が展開されます。

これらの紛争を終わらせるのに国連は役に立たず、西側諸国はNATOの力をバックに勢力均衡の原則の下、クロアチア政府とボスニア政府を援助してセルビア人勢力を大幅後退(クロアチアではクロアチア政府軍により駆逐)させ、1995年のデイトン合意につなげます。

このデイトン体制は現在まで続いていますが、ボシュニャク人、クロアチア人で構成されるボスニア連邦とセルビア人で構成されるスルプスカ共和国という二つの「自治体」で構成されるという「いびつ」な体制で、セルビア人の独立意識も強く、武力紛争は発生していないもののまだ予断を許さない状況です。

2.コソヴォ

コソヴォはセルビア人が民族発祥の地であり「聖戦」とされるコソヴォの戦いの場所であること、アルバニア人は自分たちが祖先とみなす古代イリュリア人のダルダニアがあった場所だとそれぞれ民族歴史的に重要だと見なす土地で、オスマン朝支配以降アルバニア人が多数派となっています。

コソヴォを巡るこの二つの民族の争いはゼロサムゲームで、パワーバランスの変化により帰属が変わってきました。

社会主義ユーゴ体制下ではセルビア共和国の中のコソヴォ自治州として成立しましたが、セルビア共和国との間、セルビア人住民との間で軋轢が生じていました。
セルビアでミロシェヴィッチがコソヴォ問題を利用して権力を握り強圧的な政策をとったためアルバニア人の強力な反発を招き、セルビア人とセルビア共和国との間に軋轢を生じさせ、抵抗運動が発生してセルビア共和国が治安部隊を派遣する事態となります。この治安部隊の撤退を要求する西側諸国にミロシェヴィッチ政権は最後まで抵抗したため1999年にNATOによるユーゴ攻撃が行われ、結果として2008年のコソヴォ独立に繋がります。コソヴォ独立後は国内の民族対立とコソヴォからのセルビア人の難民問題、またセルビアは現在もコソヴォをあきらめないという立場であり、安定しているとは言い難い状況です。

3.マケドニア

マケドニア問題はバルカン紛争の核となるものです。

1877年の露土戦争の結果ブルガリアがサンステファノ条約でマケドニア全土を手中にしましたが、英国などからロシアの影響が強まるとの横やりが入り、改めて締結された1878年のベルリン条約でマケドニアはオスマン朝に戻される。

こののちブルガリアに加えセルビア、ギリシアがマケドニアを巡り角逐を繰り広げ、それは第二次バルカン戦争で火を噴くことになります。

バルカン半島からオスマン朝の勢力を駆逐した第一次バルカン戦争の結果、マケドニアの領有をめぐって対立が生じ、ブルガリアとセルビア・ギリシア・モンテネグロ・オスマン朝・ルーマニアとの間で第二次バルカン戦争が勃発し、現在につながる大まかな国境線が形成されます。以後マケドニアはブルガリアにとって遺恨の土地となります。マケドニアのオフリドは中世ブルガリアの文化的中心であり歴史的関心も強く、ブルガリア人は今でもマケドニア人はブルガリア人でありマケドニア語はブリガリア語であるという立場を変えていません。

この遺恨はのちのちまでブルガリアの行動に影響を与え、二度の大戦ではマケドニアを約束する陣営に属し、実際にマケドニアを占領しました。

ちなみに「マケドニア人」「マケドニア語」という名称はセルビア領マケドニアのスラヴ人に社会主義ユーゴ連邦のもと与えられた名称です。このことはもともと民族名も言語名もなかったこのマケドニア共和国内の「マケドニア人」に一つの民族としてのアイデンティティーを生じさせます。

そしてマケドニア共和国独立以降、マケドニア問題にはブルガリア、ギリシアに加え(セルビアは現在マケドニアにはあまり領土的関心がない)マケドニアそのものがアクターとして登場します。マケドニアの民族主義者はブルガリア領マケドニア、ギリシア領マケドニアを「失われた領土」と規定しています。

加えて、マケドニア国内にはアルバニア人マイノリティ―の人口が多く、アルバニアもこの問題のアクターとなっている状況です。

ギリシアは独立後のマケドニアに対し国名変更(多くの国ではギリシアの主張に同調し「旧ユーゴスラヴィア共和国マケドニア(FYROM)」と呼ぶ)と国旗の変更を要求し、マケドニアが国旗を変更した後でも歩み寄りが見られない状況です。

以上が大まかな説明です。他にもサンジャクなど紛争地帯がありますが、今の段階ではこれだけ頭に入れておいて頂ければ、レポートをお読みになる際に十分であると思われます。


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