「名誉男性」の意味の変質と「なりたくなかったあれ」になってしまったフェミニスト

ついに「なりたくなかったあれ」とまで言われるようになった現在のフェミニストたち。
思えば「名誉男性」として糾弾する対象の変質を容認してしまったことが、問題に拍車をかけてしまったようにも思う。

元来「名誉男性」というのは、いわゆる家父長的性役割を批判もなく押し付けるタイプの女性に対するものだった。
「女だてらに大学なんかに行くもんじゃありません。」
「女性ならもっとおしとやかになさい。」
「三歩下がって旦那さんの後をついていくことこそ真の女性ですよ。」
「家のことは女がやって、女がやれて当たり前です。」
のような、モラハラ実母からの押し付けや、姑による嫁いびりの一環、あるいはこれを無条件に信じる女性による他の女性たちに対するマウントについて、女性の自由と自主決定権を阻害するものとして定義されていたはずであった。

しかし時代が進むにつれ、
「自分たちは女性の自由と権利の獲得のために努力している。」
→「そんな自分たちに反対する人間は、女性の自由と権利の獲得を阻害しているに違いない。」
→「しかるに自分たちに反対する人間はすべて『名誉男性』であり、はねのけなければならない敵である。」
という認識に変質していってしまった。
結果として本人が「そう望んで行っていること」についても、自分たちの主張にそぐわないからという理由で「名誉男性だ」「潰すべき敵だ」となってしまったわけだ。

この変質した「名誉男性」においてどのような人々が指定されたかというと…
「好きでエッチな絵を描いている女性作家」
「女性にありそうな問題を提起する女性作家」
「女性らしい体形を持ちそれを生かした仕事をしようとする女性モデル」
などが、自分の仕事に誇りを持った発言をした場合である。なぜならばフェミニストたちの主張である
「エッチな絵は女性差別。」
「女性の問題であるとみなすのは女性差別。」
「女性らしい体形を強調するのは女性差別。」
といった主張に真っ向から反対することになるためだ。
すなわち、フェミニストは自分たちの主張を通したいがゆえに、女性本人の意思や決定権を否定することになったのである。

しかし本人たちは自分が「女性の意思や自由を阻害した」とは毛ほども思っていない。なぜなら自分たちの活動こそが「女性の意思と自由を尊重し権利を拡大していくものであるから」と固く信じているからだ。目の前の女性がそれで自らの活動に終止符を打つことになっても、それは最終的には女性の自由につながる正しい道筋に導いたのだから問題ない、というわけだ。

しかし当然ながら、そんな詭弁を認めないフェミニストたちも存在する。仮にそれが女性蔑視につながるものであっても、女性の作品であり、活動であり、活躍の場である以上、守られる必要がある、という非常にラディカルなフェミニストたちである。
彼女たちはそれまで「女性の権利のために団結する必要がある」と耐え続けてきたが、F1グリッドガールやミスコンのあたりから疑問を持ち始め、最近の過激な女性モデル・女性作家叩きに至り、ついに反旗を翻し始めた。

反抗された主流派フェミニストは
「反抗的なお前らは、男にとって都合のいいだけの『名誉男性』だ!」
と非難したが、むしろ男にとって彼女たちのような真の「ラディカル・フェミニスト」は全く都合がよくない。
彼女たちの主張は「女性であれば何をやっても許されるべき」であって、男の権利など本当にどうでもいい。男の人権などなくしてしまえ、今すぐ皆殺しにしてやれ、と平気で思っていることだろう。
彼女たちは単に主流派フェミニストによる「女性の主体的な判断と自由を否定する主張や運動」に憤っているだけで、フェミニストたちが過ちを認めて、女性の活動に関しては中身がどうあれ目をつぶるようにしさえすれば、より強固な「同志」として活躍するはずである。

しかし主流派フェミニストたちは、そうすることは絶対にできない。
まず自分の過ちを認めることができない。それをするとフェミニズムの活動が崩壊すると信じているからだ。
そしてこの主張が「反フェミニスト」から出てしまったためだ。反フェミニストの主張に沿うことは、フェミニストとしてのプライドが許さない。

フェミニズムはこのまま空中分解を待つのみ、なのである。