【意見論評】柴田英里氏が一部フェミニストに叩かれるのは何故なのかを考えてみる

柴田英里氏が「物申したいフェミニスト」に呼びかけたものの、残念ながら批判者が現れなかったこちらのスペース。
https://twitter.com/erishibata/status/1685522926760816640?s=20
この録音を聴きながら、柴田氏の主張と、僕がフェミニストの主張から理解しているフェミニズムは相容れないだろうな、と思った。
「どちらのフェミニズムがフェミニズムとして正統/最新かどうか」の話は置いておいて、この「相容れない部分」がどういうところとなると考えたか、をまとめていこうと思う。

1.論理的な整合性を求めた結果、女性の権利を制限することを受け入れてしまう


フェミニズムというのは「女性のありとあらゆる権利を拡張する」ことを目標とする。その中には当然論理的整合性のないものも存在する。そもそもその主張が矛盾していて理屈に合わないとか、非常に身勝手な主張であるため誰にも信用してもらえなくなる、であるとか。
しかしながら、そうした主張すらも立派な「女性の権利」であり、これを獲得することがフェミニズム、ひいては平等に向かうことになる。それが他の性別の人権を奪うものであろうと、他の女性の権利を阻害するものであろうと、「フェミニズムの主流であるアタシの主張が無条件に押し通ること」こそが正義であり、女性差別の撤廃であり、平等である。
なので「そのりくつはおかしい」という主張は、女性による「理屈に合わない主張を認めてもらう権利」の阻害となる。
もっと卑近的に言うなら「アタシの主張に反発するお前は女性の権利を阻害する敵だ!」である。

2.別の性別の権利を考慮してしまっている

フェミニストの昔からの主張に「男性の問題は男性で解決しなさい」がある。
フェミニストが女性差別に対抗してきたように、男性側に人権の問題があるなら男性が自らどうにかしろ、ということであり、フェミニストを名乗る以上、その他の性別がどうなろうと知ったことではない、という立場を取らなければならない。
例えば、痴漢冤罪の存在であるとか、不同意性交罪で「同意」の条件が不明瞭で恣意的な運用がされる恐れがあること、というのは「男性側に存在する問題」であって、「フェミニスト」は気にしてはならない。これを「問題だ」と言うこと自体がフェミニズムの「女性の権利の拡張のみを追求する」方向性に反している。
同じように「男性が主張している何か」に賛同することも、「女性の権利の拡張のみを追求する」に反する。例えば「表現の自由について、女性の4割が求めている」に関しても、男性が6割いたらその時点で「女性以外の性別が求める権利を追求する」状態になるので認められない。仮にそこに4割もの女性がいたとしても、である。
「女性の責任」についても同様。女性は本来得られるべきであった権利を獲得しているだけであり、それに伴う責任というものは存在しえない。そうした責任についての言及することは「女性の権利のみを追求する」スタンスに反する。
自分たちが権力を持ちながら被害者意識で主張することにも、何一つ問題と考えていない。「女性以外の権利」は考慮しないから、結果として他で何が起ころうと知ったことではないからだ。
従って、別の性別への影響を考慮してしまっている柴田氏は「フェミニストではない」と目される、と考えられる。

3.フェミニズムとは啓蒙である

フェミニズムとは、女性差別を解消するための啓蒙である。つまりフェミニズムこそが正義であり、社会はその正義が反映されていない状態であり、それを解消する、という考え方になる。
結果、以下のような考え方になる。

3-1.「自浄作用」などと言うものは存在しない
フェミニズムとは絶対正統正義の主張であるため、その主張が「自浄」されるなどと言うことはあり得ない。むしろ疑問を持つこと自体が「悪」であり、啓蒙されるべきものである。

3-2.フェミニズムに反する女性は「社会に毒されている」存在である
フェミニズムが嫌がる活動をしようと女性が考えること自体が「男社会に毒された」ものである。従ってその主張やそれを行う権利は一切認められない。
例えば「おっぱいの大きいかわいい女の子の絵」を描きたい女性というのは「男社会に毒された結果」発生したものであり、その要求は「女性の権利」として認められるべきものではない。フェミニズムを理解すれば、そのような絵を描きたくなくなるのが当然であり、それが正義である。
「大きなおっぱいを利用し表現を行う」女性も同様「男社会に毒された存在」と考えられ、フェミニズムを理解すればそういうことをする気が起きなくなるはずだ。
未成年ならなおさら、である。フェミニズムの教育を施さなくてはならない。

3-3.フェミニズムに従って社会がアップデートされるものである
フェミニズムは啓蒙であるから、実際の社会の女性がどう考えているかは関係ない。「社会の情勢に従ってフェミニズムがアップデート」するのではなく、「フェミニズムに従って社会がアップデートされるべき」である。なので「現代女性のニーズに基づく視座」などは必要ない。

なので、これに反する主張をする柴田氏は「フェミニスト」ではない、男性に迎合する敵である、と見なされている、と考える。


では柴田氏はフェミニストではないのか?というと、バリバリのフェミニストである、と感じた。
一貫して「現代女性が求めているものを実現する」ことしか主張しておらず、それを行うための副作用や「責任」という形で発生する女性への制限を甘んじて受ける、というスタンスに見えた。
なのでフェミニズムという思想そのものに反対の立場としては、柴田氏は責任と論理的整合性を取ろうとはするが、最終的には女性の権利を優先するところに着地するのではないか、と思うし、そうなった時に反フェミニズムとしては受け入れられないだろう、と思った。