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考える葺は40℃じゃ美味しくならない

ご無沙汰してます。嵐くんです。

先日バルセロナとポルトに行ってきました。そして今はイタリア国内を周ってます。

どんだけ旅行行くねんという感じですが、きっと今後ヨーロッパに来る事はできても自由に周る機会はないし、ずっと家にいても腐っちゃうので、どうせならいろんな経験積んでしまおうという魂胆です。

これまでnoteでもうだうだ言ってきたけど、この半年はギャップイヤー的な認識に落ち着いたので、振り切っていろんな出会いとか経験をしていきたい。

お金に関しては、普段鬼の節約術(ニートともいう)を発揮してるので、実は意外と浪費せずに済んでたり。と思ってたら円安エグすぎて禿げそう。


で、やっぱりいろんな国、特にヨーロッパというおぼろげにしか認識できていなかったものを目の当たりにして、ものを考える視野は広くなってきてるかなと思う。

百聞は一見に如かずとはよく言ったもので、噂とか通説だけで思考を成り立たせるのはよくなくて、実際に自分の肌で感じに行かなきゃダメだって気持ちはより強くなった。

何かを評価するときも、「〇〇が良く言っているから」という理由で実際の経験なしに良い評価をすることも、経験した上でもその意見に引っ張られて良く感じることも、無意識にたくさん起こってると思う。
そこを自分の感性だけで判断できるようになりたいし、ならないといけないなと思う。


実際こっちに来て感じたのは、どうやら嵐くんは教会に対する畏敬の念、というよりオーラを1ミリも感じないということ。キリスト教信者じゃないから当たり前っちゃ当たり前なんだけど、でっけーとか、金かかってんなーとか、めっちゃ凝ってるなーとか、そんな感想しか出てこない。

なんでわざわざそんな事を言うのかというと、お寺とか神社からは物凄いオーラを感じるから。
別に仏教信者でもないけど、仏教系の幼稚園だったのは関係してるかもしれない。近所に不動尊があることも影響してるかも。
毎年初詣は気合い入れて行ってたし、受験期は散歩がてら週一くらいでお祈りしてたし、意外と神道ガチ勢なのかもしれない。

とはいえ、世界的に有名な教会でも同じようなオーラを感じると思ってた。あんなに凄い教会を前にして、深い感情が湧かないのはちょっと悲しい。
宗教を重んじていなくても、自然と心に棲みついて拠り所になっているんだな、と認識させられた。高幡不動LOVEってこと。
けっこう常識を覆された。



その「実体験に基づく思考の展開」って、ものすごく感性に刻みこまれる。

ここ数年で受動的に情報をキャッチするようなツールが増えてきて、一般的な事象に対して自分で頭を働かせることが少なくなってきてる。
カイトの、人生で一回使うかどうかも分からん豆知識を聞いても、それすら3時間後には忘れてる。

いま大事なのは、なにか刺激を受けて、疑問を持って、考えることだと思う。それをしなくなった時点で成長はできない。つまり退化だと思う。

だからこそ、知らないところに行って自分の感性を育てていきたい。
知能を持つ人間として、日本人という恵まれた背景を持つ人として、近所の銭湯、もとい怠惰に浸かってるばかりじゃいけない。

それこそこうやって整理してアウトプットすることだけでも、自分の核をつくってるように感じる。だからみんなもアウトプットする場所をつくったほうがいい。


ちょうどイヤホンケースを失くして気分ドン底だったけど、意識を音楽に取られずにものを考えるいい機会だと思って生きていこうと切り替えることにします。ポジティブにいきましょう。


P.S.
ちなみにスーパー銭湯アンチではないしむしろ大好きです。早く日本に帰って浸かりたいです。
ヘッダー画像のスーパー銭湯はビーチについてるシャワーのことです。この国にスーパー銭湯なんてものはありません…どうして古代ローマのテルマエは継承されなかったんですかね