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味噌汁で目が覚めるということ

ある週末の夜のこと。
その日は食材が切れていて、夜も遅かったので、ラーメンでも食べて帰ろうと思った。金曜日だし、豪勢に行くのもいいかなぁと。
あのお店は前に行ったし、あのお店がいいかな……。そんなことを考えつつ、少し遠回りして近所のラーメン屋さんへ。
しかし、お店の前まで行ってみると、週末の夜のせいか満席。並んで待つほどの思い入れもなかった僕は、近くの牛丼屋さんで夕飯を食べることにした。

注文したあと、僕は明日やるべきことをぼーっと考えていたように思う。
掃除機を掛けておきたいし、春服のクリーニングもいくつか出しておきたい。チケットも予約しておかないとな。少し仕事もしたいから、書店のイベントは日曜日にしよう。……そんな感じで。

翌日の予定を考えるのは、夕食時の習慣だったが、それでもやはりその日はボーっとしていたのだと思う。
料理が運ばれ、「さて食べよう」と思い、味噌汁のお椀に手を伸ばした瞬間、見事に手を滑らせてひっくり返してしまったのだ。
それはもう典型的だった。
たとえるなら、昭和のホームドラマで、夕飯時に娘から結婚を告白された父親のような、そんな感じのお椀のひっくり返し方だった。そして、避けるすべもなく、僕の腰のあたりは完全に味噌汁まみれになってしまった。

僕は「やっちゃったな」とは思ったものの至極冷静だった。おそらく冷静に振舞おうとしていただけなのかもしれない。熱いという感覚はなく、普通にハンカチを取り出し、服とカバンを拭き始めた。
むしろ慌てていたのは定員さんのほうで、「熱くないですか?」「火傷しませんでしたか?」「こちら、濡れているほうのタオルでこぼした場所をぬぐってからから、乾いたほうのタオルで拭き取ってください!」と、とても丁寧で親切な対応をしてくれたのだ。しかも味噌汁のお替わりまで出してくれる気遣い。
周りの視線もあったし、あまり騒ぎ立ててほしくないという思いもあったけれど、これほど親切に対応してもらえるとは思っても見なかったので、少しうれしかった。

それで少し
「目が覚めた」という感覚があった。

僕は今、いろいろなものの渦中にあり、いろいろなことを考えながら行動している。もちろん常に「正しいこと」を考え、選んで、行動できているわけではない。自分がそのときに「やっておいたほうがいいかな」と思ったことを選んで行動しているだけ。何となく作り上げた自分の基準に照らし合わせ、やるべきことを決め、優先順位を決め、実際に行動し、試行錯誤をして、目標に向かっていく。

もちろん、そのときの僕にとっては「やっておいたほうがいいかな」と思えることでも、他人から見ればおかしかったり異常だったりすることもあるだろう。それに、自分の考えに従って行動してみたあとで、「やっぱり失敗だったな」と思うこともたくさんある。
でも、だからといって自分の考えや行動に対し、常に他人の判断を仰いでいるわけにはいかない。それでは非効率だし、そもそもの自分の意味なんてないように思える。

そうはいっても、社会とのバランスを保ち、目標を達成していくためには、「自分も他人と同じようでありたい」と思うことは常にある。
けれど、ただ周りの「大きな声」だけに耳を傾け、「自分がそういうものに従わなければならないんだ」と思ってしまうのは、少し早計ではないかとも思う。

僕が「やっておいたほうがいかな」と思えることに対し、1センチでも前に進んでいるなら、それは前に進んでいるのだと思いたい。それが、他人に「進んでいない」と言われたとしても、自分が「進んでいる」と思える以上は、その基準に従ってコツコツと歩を進められる自分でありたい。
そして、それが誤っていると思えたら正せばいい。他人の言うことがもっともだと思えば、それを自分の中に取り入れ、新たな基準を作ればいい。

何の考えもないまま「大きな声」に動かされてしまうのは気持ち悪い。何らかの自分の立ち位置を持っておきたい。

自分が大丈夫だと思えば大丈夫なんだし、焦っているときは焦っているんだし、熱くなければ熱がる必要なんてない。周りの「大きな声」に惑わされ、熱くないのに「熱い」と言う必要はないのだ。

今回は、ただ味噌汁をひっくり返して、それなのに火傷もせず、定員さんも親切でよかったという話なんだけれど。
いつも味噌汁には、目覚めの一杯としての効果があるみたい。

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