見出し画像

1. 変化と適応

記念すべき第一回目の投稿は、私がブログを始めようと思ったきっかけと、このnoteという場で何を発信していきたいのかを記したいと思う。

だがその前に、一つだけ断りを入れたい。

私は、自分が好きなことを好きなように表現していくつもりである。
もちろん誰かを傷つけたりするようなことはしたくないし、それは私の本意ではない。ただ、私が無知の故に、嫌な思いをさせてしまうようなことがあるかもしれない。そのことをあらかじめご理解・ご了承いただきたい。そして、まだ未熟な私がこのnoteを通して成長していく姿を温かく見守って頂けると幸いである。

では本題に入る。

私がブログを始めたいと思うようになったのは、つい最近のことではない。
どこまで遡るべきなのかわからないが、これを説明するためには、少々「自分語り」をさせて頂く必要がある。

私の人生を一言で表すとしたら「適応」だ。
私は親の影響で、幼い頃から引っ越しや転校を何度も繰り返し、その度に適応する必要があったからだ。

物心つく前は何もわからないまま、簡単に「適応」することができた。非英語圏の公立幼稚園に入学し、なんとなく現地の言葉を覚え、友達も作った。
あまり苦しんだ憶えはない。

その後日本に帰国した際にも何度か引っ越しをしたが、特別悩んだ時期があったわけでもなく、楽しい毎日を送っていた気がする。

今までの人生で一番辛かったのは、小学3年生の2月頃に親の転勤が決まった時である。この頃の私は自分の人生にとても満足していた。いい友達もいたし、正直成績も良かったし、自分が大好きな水泳もぐんぐんと伸びていた。そんなタイミングで親から転勤のことを告げられた時、涙が止まらなかった。でも私には父親と離れて暮らす生活など考えられなかった。
だからもちろん、「ついていく」の一択しかなかった。

人生2回目の海外生活は案の定地獄であった。
現地の言語も英語も話せなかったが、私は親の勧めでインターナショナルスクールに行くことを決断した。理解できない英語で英語を教わるのは当時9歳だった私にとってストレスでしかなかった。

初めの一年はつきっきりで英語を教えてくれる先生がいたが、自分は果たして上達しているのか、日々のレッスンは本当に意味のあることなのか、全て疑心暗鬼になっていた。あまり記憶にないのだが、この頃は帰宅後毎日部屋で泣いていたらしい。

一年が経ち、ようやく成長を感じることができた私は、完全に閉ざしていた心を少しだけ解放させることができた。今までは迷惑をかけたら申し訳ないという思いで断っていた遊びのお誘いも、受けるようになっていった。
すると、申し訳なさや弱気な気持ちなどもっと早く捨てていれば良かったと後悔するほど、一気に言語を習得することができた。友達と遊んでいることに夢中になればなるほど、自分の発言の間違えを気にする暇などなかったのだ。

3回目の海外生活は、2回目と比べるととても楽に感じた。
そして帰国してからは、貴重な3回の海外生活で得た経験を活かし、帰国子女の多い高校へ入学することができ、その後も大学へと無事入学することができた。
(ここで帰国子女の世間的なイメージに触れたい…)
帰国子女は「親ガチャ」でラッキーだとか、語学力だけで入試や就職への合格が決まり「チート」であるだとか、色々言われることがある。
ただ私は自分の経験上、こういった意見を素直に受け入れることはできない。努力していないと言われているようで、どこか苛立たしく、切ない。
帰国子女に限らないとは思うが、誰かや何かに対する決めつけはやはり良くない。

話を戻して、
この通り、私は環境の変化が非常に多い人生を送ってきた。
そしてその都度、「適応」してきた。
今現在も私は「適応」している真っ最中だ。
留学のため、つい一ヶ月ほど前に日本から渡航したのである。

ずいぶんと遠回りをしてしまったが、
私がブログを始めたいと思った理由は、この「適応」に関係している。

私は引っ越しや転校を何度も繰り返してきた人生の中で、
うまく「適応」するために、自分を「殺してきた」。
もちろん比喩的に。
周りに合わせるために、自分の考えや意見をすぐに曲げたり、
他人と違っていることを嫌った。

もちろん、同調性が重要なスキルであることは十分承知している。
ただこうやって、周りばかりを気にして、合わせているだけでは、
自分が何者なのか、自分にとって大事なものは何なのか、
こういった簡単なことさえも見えなくなっているような気がした。
だから私はこのブログを通して、自分探しの旅をしたい。
そのために、自分の好きなことや興味を持ったことなどを、
縛りなく自由に表現していきたい。

これがこのブログの目的である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?