###2024/06/02###

敬虔なnoteの殉教者たるワタシは3日連続投稿を成し遂げるのです。
驚きであります。こんな事をしていないで、もう少し理科の問題を解く時間を作るべきかもしれませんが。否、でアリマス。

倫政をもう一度覚えなおすので、せっかくなら日本国憲法を通読してみたいなァと思う今日この頃であります。雨天につき中々元気も湧いてきませんが。

本題へ。
「テセウスの船」が時代遅れの哲学表現となりつつある(僕がそう思ってるだけかも)この恐ろしい令和時代に「自己の定義」を考えようとする時何を寄る瀬とすれば良いのでしょうか。
怠惰な私は大学に入るまで(入ってもやるのかは不明ですがね。"will"ですよ、"will")本格的な哲学を勉強する気もキャパも無いのですが、実際この題に対して皆はどんな答えを出しているのだろう。

共テ対策なんて所詮表面しか攫わないもので、それじゃああんまり分かった気もしないよねぇ。

まぁ置いといて。実際、どこまでが自分なんでしょう?
"記憶"が自分を自分たらしめるという文章を前に読んだ事があります。
その文脈では、「自分 to 自分」、己を客体として観察した際の自己同一性の見つけ方として"記憶"を例に挙げていたのですが、これ結構応用が利くと思うのです。

例えば、私達は"友達"を記憶の中で構築してますよね。
不都合気味な部分は削りながら"オトモダチ"の幻像を脳内で完成させておいて、飴玉みたいに舐めて舐って、終に、発酵も済まし切った頃に、それと現実を照合して
「久しぶり~、全然変わってないじゃん~!>-<」
とやる訳です。
この際、我々が主としているのは果たして"オトモダチ"なのか"友達"なのか。
久々に会って、違和感を感じるなら最早目の前の"友達"は知らない人ですよね。あ、別に悪いってんじゃないですよ。
会わない時間に蓄積された微小変化が一気に解放されるからおかしな事になる。積分の面積計算みたいなもんでしょうか。

"おかしな事"でも無いかな。うーん思考が迷子。

でもね、一足飛びに結論まで行くと、僕は別に"船"がどうなってようがどうでも良いと思うんです。"オトモダチ"か"友達"かもね。
目の前にいるのは、何であろうが大切な、尊重すべき他者であるっていう事実だけなんですから、深い事考えずに再開を喜んだら良いんですよ。
"船"だって航海できればそれで良いでしょ?
パーツじゃないでしょ、欲しいのは?目的は航海な訳。

ちょっと拍子抜け?
でも、これで十分だと思いますよ。
もう少し暇があればね。グジグジ考えてもみるんだけども。

まぁなまじっか暇があって、頭が回るってのも考えものだと思いますね。
悶々としてる子がいっぱいいるような気がします。
死ななきゃそれも経験、でしょうけど。

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