「鹿の王」という幻想

 先日、上橋菜穂子さんの新刊「鹿の王」という本が上下巻で発売された。 

 アンデルセン賞を受賞し、NHKで特集され、「守り人シリーズ」が対がファンタジーとして坂の上の雲に匹敵する時間をかけて作られることが発表されたからか、発売前から三版決定というもの凄い滑り出し。
 私はというと、なぜか発売日の三日前にジュンク堂さんから入荷の連絡があり、急いで受取りに。
 すぐに物語の世界に引き込まれましたが、飲み後の少し酔った頭では複雑化してくる地名と人名勢力図に対する理解の限界が早々に訪れて、名残惜しくも切り上げ、翌日に漸く読了。


 絡み合っているのに出会わない二人の男。
先住民と統治者の対立と、渦巻く陰謀。
小さい子どもの温もりと声。
どうしようもなく惹かれる想い。 

上橋さんの本を「児童書」「ファンタジー」だからといって敬遠している人がいたらとてももったいない。

 一つ一つの命が集まって、やがて大きな流れになっていく。
 上橋さんの紡ぐ物語はそんな、人間社会というよりも自然の縮図のようだといつも思う。

 生きること、死ぬこと。育むこと、殺すこと。育つこと、老いること。 歓びと哀しみ。幸福と苦悩。慈しみと憎しみ。
 そんな生物として当然のことが、どれかが強調されることも、また否定されることなく、全てを歴史が呑み込んで流れていく。
 そして、人々が耕した大地が、動植物の生きる自然が、誰かが信じた信仰が跡を刻んでいく。
 それこそが、上橋さんの物語が「生き生きとしている」と評される所以なのだと思う。

 最初「鹿の王」という言葉の意味が出てきた時に、何となく上橋さんらしくないような気がして奇妙に思えたけれど、終盤でヴァンが父親の言葉を思い出している場面で漸くその違和感の正体に気づいた。

 上橋世界に「英雄」はいない。

 英雄に祀り上げられる人間はいても、そこには必ず「そうなってしまった」人間の哀しみが存在する。
 だから、まるで自己犠牲を賛美する様な記述に違和感を覚えたのだと思う。

「鹿の王」という言葉の持つ意味と、森へと消え去っていった「家族」の行く末に思いを巡らせずにはいられない。


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