見出し画像

20年、生きた

ご無沙汰してます、蜜柑月です。

前回記事を出したのが5月で、フォロワーさんの記事を読むことはしていたのですが、テストやらサークルとやらで忙しく、6月はなかなか出せずにいました。

先週くらいにnoteの通知くんが、note今月中に記事投稿せんと毎月投稿リセットされるけどええの?((圧 と言ってきたので、そういえば…!!と思い、今日投稿することにしました。


なんだかんだ毎日を積み重ねてたら、とうとう20歳に。ついに20代突入です。なんか一気に大人びた気分。
お酒を飲めることが待ち遠しく、何ヶ月か前から今日までずっと楽しみにしてました。
まあ、親にも軽く心配されたのでほどほどに嗜みます。


最近は悩みも増えて、サークルは相変わらず波乱で、自分の感情を受け入れつつ、折り合いをつけなくちゃいけなくて、家族のことも実はちょっとずつ不安になってきて、色々脇見してる間にいつの間にか勉学もちょっとずつ怪しくなってきて。

押し潰されそ〜、と思いながらなんとかやってます。これがいつまで持つか。



ここ1年ちょっと一人暮らしをして、20歳の誕生日を迎えて思うことは、「人ひとりが20年生きることの大変さ」、これに尽きます。

小さい赤ちゃんや、幼稚園に通ってたときは何も考えず、ただ思うようにすればよかったけれど、親目線からしたら自分の周りにはたくさんの危険が近くに潜んでいたんじゃないかと。
最近の、小さい子が関係する痛ましい事故や事件のニュースを見る度に思います。


小学生とか中学生になると、ある程度周りのことも分かってきて、でも一人じゃ何もできないのは変わらなくて。当たり前だけれど、処世術なんてまだほとんど知らないから他人の攻撃とか躱せないし、逆に精神の未熟さ故にこちらが攻撃してしまったり。
人間関係が上手くいかなかった時期もあったので、そのときに心が潰されてしまう可能性だってあったのだなぁと。


高校生になってからは、色々情報を調べられるようになって処世術もちょっとは覚えて。
それでも心が傷つく日々はたくさんあって、よくベッドの上で泣いたのも覚えてます。今となっては何がそんなに苦しかったのかあまり思い出せないけれど、きっとその頃の自分にとっては重要なものだったはず。

逆も然りで、自分が気づけてないのも含めて、誰かの心を傷つけたことも何回もあったんじゃないかとも思います。これも忘れつつあるけれど、罪悪感が強いせいでもあるのか、常に言動には気をつけている…つもりです。


そして今。
大学生になって、身近なことは全て自分でしなきゃいけなくなって、毎日を生きる大変さを身に染みて実感しました。

油断してたら食べ物は容易に腐るわ、洗い物はめんどくさいわ、頑張って起きなきゃ遅刻しそうになるわ、勉強は難しいわ、サークルはしんどさを増すばかりだで、もう1日をしのぎ切るだけでも息切れが強く。

気力のない日なんてカップ麺で済ませられるけれども、それは一人暮らしだから容易にできることであって、家族がいると難しいことなんだな、と。
毎日食事をはじめとする家事をしてくれた母には尊敬しかないです。


バイトも、お金が稼げるのは嬉しいけれど、苦手な人がいて、その人とシフトが被らないかが不安で毎回憂鬱になります。あと純粋に忙しい。バイトだからいざと言うとき辞めれるけれど、社会人になって就職したらそのハードルはグンと上がるのだろうな、と。
働くってものすごく大変。
そう思うと、家族のために働いてくれている父にも感謝と尊敬の念があります。


全てが順風満帆に行った訳ではなく、どうしても人間関係でひっかかったり、心が壊れそうになったり、ある時には泣いて、怒って。
それは両親にも、友達にも、先輩後輩、学校の先生をはじめとする周りの大人、そして自分自身にも。それぞれに何かしらあった気がします。

だけど、それ以上に与えてもらった喜び、楽しさ、優しさ、愛情は計り知れなくて。
傷つけたこともあったろうに、それでも側にいることを選んでくれた人が近くに大勢いるのが、まだまだ未熟な自分を受け入れてくれる人がいるのがとても嬉しくて。
私と関わってくれた人たちに対して、温かな感情を噛み締めながら誕生日を迎えていることが、何よりの証拠だと思います。
ありがとう。


身体的なこともそう。
大きな事故や病気もなく、何一つ不自由のない体で産まれたこと、ここにきて大きなありがたみを感じています。
少し踏み入った話ではありますが、母は高齢出産に含まれるような年齢で私を産んでいて、もしかしたら何かが起こった可能性だって低くはなくて。誰だってそうかもしれないけれど、今ある自分の身体は当たり前のものではないことを感じます。


長々と書いてしまいましたが、要はここに至るまでにたくさんの偶然と奇跡が積み重なっていて、それは決して当然のものではないということ。それはこれまでも、であり、これからも。

まだまだ自分のことを好きになりきれない部分もあるし、不完全なこともあるけれど、少なくとも今だけは、自分が自分であれることに誇りをもっています。



この体だけの鼓動を この胸だけの感情を
音符のひとつ 言葉のひとつに変えて
繋げて見つける はじめの唄

生み出してしまった希望を 頷いてくれた絶望を
他の誰とも分かち合えない全てで
宇宙を震わせろ 今

「窓の中から」(BUMP OF CHICKEN)


そして最後に。
今まで何回も、何回も向き合った自分の心、感情。

苦しいとき、辛いときに、誰かのどこか他人事のアドバイスみたいな「生み出してしまった」「希望」と、
誰かがほんの少し共感してくれただけでも救われた感覚がした「頷いてくれた」「絶望」と。


心の奥底渦巻く、なけなしのプライドとか大切なもの、人に言えないような黒い感情とか、叫びたい衝動とか、そういった「他の誰とも分かち合えない全て」を、自分の鳴らす楽器の「音符のひとつ」、noteの記事の「言葉のひとつ」、その両方が詰まった歌声にありったけを込めて向き合ってきたこと。

何にもないような顔して歩きながら、あるいは毛布を抱えながら、まとまらない思考や感情になんとか折り合いをつけようと頑張ってきたこと。
楽しかった記憶に対して寂しさを覚えたこと、それでも思い出してはニヤニヤが止まらなかったりしたこと。

そうして積み重ねてきた音符ひとつひとつ、言葉ひとつひとつに加えて、人と関わった記憶とそこから生まれた感情、それを生み出した心に向き合ってきたという事実、その最終過程で導き出した答えも全て含め、それらが「私」という一人の人間を形作っているのではないかな、と。

20年生きた軌跡がそこにあるような気がします。


まだ旅路の途中で、これから何が起こるのか全く分かりませんが、まだまだ続けるつもりです。
まだまだ私も生きるので、他の人にもなるべく生きていてほしいです。

今までどうもありがとう。
これからもよろしくお願いします。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?